はじめに
患者様ご家族(H.N様)
妻は7年くらい前に発病し、今年(平成24年)初めには寝たきりになりました。
それをきっかけに、あおぞら診療所にもお世話になっています。
最初は更年期がひどく、その後認知症が発症、そして少しずつ病状が進行してきました。
その内、神経難病である「大脳皮質基底核変性症」という病名が付き、歩けなくなり、喋れなくなり、食べれなくなって、今年「胃ろう造設」を行いました。
そういう妻を見つつ、戸惑いながら、何故か時には怒りながら、まったく介護に素人の私(夫)が介護・看護をする羽目になりました。
そういう今までの介護の日々や現在の私の思い等を、お願いして今回このホームページに投稿させて頂く事になりました。
同じあおぞらの患者様や家族の皆様に少しでも何か通じる事があれば幸いに思います。
なお、過去の日々の記述は、私の家族(子供たち)との情報交換用のブログ(非公開)からの抜粋です。
患者様ご家族(H.N様)からの寄稿です。
タイトルをクリックすると、それぞれの文章に飛ぶことができます。
◯ お父さんの気持ち 2018年12月3日
◯ 介護のレベル 2018年11月12日
◯ 介護へのこだわり 2018年11月11日
◯ 気持ちが通じ合う 2018年11月5日
◯ B子さん 2017年10月14日
◯ お母さんの気持ち 2017年4月24日
◯ 一枚の写真 2016年4月24日
◯ お母さんの懐かしい笑顔 2015年11月29日
◯ ウォーキング 2015年6月21日
◯ 初めての入院(その2) 2015年2月26日
◯ 初めての入院 2014年12月13日
◯ お父さんと一緒がいい 2014年11月6日
◯ 琴線に触れる言葉(奇跡) 2014年9月8日
◯ 明るく、楽しく 2014年6月30日
◯ オムツ交換は大変だ、けど・・ 2014年5月13日
◯ 忙しい金曜日 2014年2月27日
◯ 家族会で泣いた日 2014年1月15日
◯ 最後の外食 2013年10月26日
◯ 本当の自分 2013年9月4日
◯ 発語できないおかあさん 2013年8月25日
◯ 妻の爪を切る 2013年2月25日
お父さんの気持ち 2018年12月3日
患者様ご家族(H.N様)
私はよく夢を見る。眼が覚めてからしばらくは覚えている事もあれば、一瞬で忘れ去ることもある。夢って何なのだろう。心の中に隠れている本当の気持ちが表面に出てくるのだとも言う。だからブラックな私の場合、何かから逃げようとしても足が重くて早く走れなかったり、なぜか高い崖からよく落ちたりするのだろうか。
織田信長は亡くなる時「人生50年、夢幻の如くなり」と言ったとか、言わなかったとか。
豊臣秀吉も亡くなる時「人生は夢のまた夢」と言ったとか・・
確かに私の人生で過去に起きた出来事が本当に実際に起きた事なのか、それとも夢の中の出来事なのか、最近分からなくなる事がある。中学生の頃の甘酸っぱい記憶や高校の頃のほろ苦い経験は実際にあった事なのだろうか。これは私の加齢による単なる物忘れなのか。
いずれ目の前に居るお母さん(妻)が居なくなったら、一緒に歩んだ二人の人生もはかない夢の中の出来事となってしまうのだろう。夢って不思議なものだ。
私たちは夢の中に生きているのだろうか。夢こそが真実なのかとか、思ってしまう。
私がお母さんの介護を始めてから色んなトラブルや疑問に遭遇したけれど、心の奥底に解決されないで私を困らせている疑問がある。「何故、私は介護を(我ながらこんなに一生懸命)やっているのか」である。自分自身よく分からないのだ。
よく「お母さん、愛されているね~お父さんに」と言われたりする。私を動かしているのは夫婦愛なのだろうか。それとも夫婦として家族として、とても放ってはおけないという義務感からなのか。周りから、感心されたり褒められたりする事が嬉しくてやっている単なる自己満足なのか。どれも違う様な気がする。
私が介護を始めた頃に子供達から言われたのが、「お父さんは変わったね」だった。私は変わったつもりは全然無くて、当然の如く介護を始めた訳だけれど、子供達にはそうは思われていなかったらしい。
【2009年10月】
今日の午後は、独立した子供達の部屋の片付けをやろうと思っていたけれど、あまりに天気が良いので、認知症家族会の帰りにコンビニでお弁当を買って、風車の公園までお母さんと二人でドライブする事にした。公園ではコスモスがまだ満開で、青空のもと家族連れで来ている子供たちが大勢遊んでいた。お母さんと二人、ただ歩くだけでもなんか心が洗われるような気がしたよ。
こぼしても鳥さんの餌だとか言いながら、お外で食べるコンビニ弁当がとても美味しくて、気持ちの良い日曜日になりました。
◇◇◇◇
このブログに息子からコメントがあった。「お父さんは変わったね。優しくなった気がする。」
それまでは、頑固で威張っているお父さんだと思われていたのだろう。それが普通にお母さんの介護にのめり込んでいった事に、息子たちは驚いたらしい。自分では家族に対する優しい気持ちは、それまでもずっと持っていたつもりだったけどね。
そうは言っても、この10数年間の介護生活を振り返ると、最初の頃はとてもそんなに簡単な事ではなかったし、見かけの優しさが本物の優しさに変わるのは、それはとても生易しいものではなかった。
次々と突きつけられるお母さんの変化に戸惑い、それを消化出来ないままに私がやってしまった事。そして後でそれを激しく後悔してしまうということを繰り返していた。今でも思い出すと恥ずかしくて、大声をあげながら家の前の公園を走り回りたくなる様な後悔だ。その頃は、自分自身のむき出しの魂と否応なく向き合い、苦しみながら一つずつ乗り越えていくという事の積み重ねだった気がする。介護するって、結局は自分自身との闘いなのだ。
【後悔1】 紐で縛る
おむつ交換は大変だ。手際よくやらないとお互いに疲れるし、きちんとやらないと漏れてしまう。何より大変なのは便の時だ。汚れを閉じ込めて他へ拡散しないように細心の注意を払いながら身体を拭いてあげる。その時お母さんの手は体の横だと邪魔なので、作業の間はグイッと曲げて胸の上に置く。私の頭の中は手順の確認とパジャマやシーツ、布団を汚さない様にする事で一杯だ。そのうちお母さんの手がいつの間にかゆっくりと下りてくる。もう臍のあたりだ、ヤバイ汚れる。お母さんの手を強く握って胸の上へ。「ここに置いておけって言っただろう!」分かるはずも無いのに、ついきつく言ってしまう。
作業再開。するとまたいつの間にかお母さんの手が・・。カッとなった私の頭の中は「お前の為にやってあげているんだぞ!」という思いで一杯になる。そう、こういう時にいつも頭をよぎる言葉がこれなのだ。これが毎回繰り返される。
そのうち、私はいい事を思いついた。おむつ交換の時だけお母さんの手を縛ってベッドの柵につないでおけば良いのだ。手首が痛くならない様に柔らかくて太い紐を探さないといけないと本気で考えていた。
なかなか良い紐が見つからないうちに、はっと気が付き、幸い実行には至らなかった。私は、お母さんをベッドに縛り付けようとしていた。
【後悔2】 置いていくぞ
私の実家のそんなに混んでいない駅前の大きなスーパーだった。この頃お母さんは色んな事が少しずつ出来なくなっていた。身体が動かないだけでは無く、どうしたら良いか分からず身体がすくんでしまうようだった。例えばエスカレーター。
一階で買い物を済ませた私はお母さんのカーディガンを買ってあげようとしていた。少し肌寒かったのだ。二階の服売り場までエスカレーターに乗ることにした。案の定、お母さんは足をなかなか乗せられない。いつもは左手を手すりの方に誘導しながら、右手を引いてヨイショと一緒に乗り込むのだが、その日は違った。腰が引けてしまって乗って来ないのだ。結局お母さんは乗らずに、私だけがどんどん上へあがっていく。「何やってるんだ、置いてくぞ!」私は大きな声を出していた。これも訓練だとでも考えていたのだろう。そのまま上がり続けて、もうすぐ二階につくという頃にお母さんが意を決して乗り込んできた。そして転んだ。私は黙ってそれを見下ろしていた。店員さんが飛んできてすぐにエスカレーターを止めてお母さんを起こしてくれた。その時ちらっと、私の方を見上げた様な気がする。
この時私は一体何を考えていたのだろうか、何をしようとしていたのだろうか。
【後悔3】 トイレで怒鳴る
【後悔4】 部屋から閉め出す
etc ...
こういう事を繰り返しては、「私は一体何をやっているんだ」と自分を責めていた。そんな私を、一人では色々な事が出来なくなったお母さんはただひたすら信じて、文句一つ言わずに頼ってくれた。そうと決めた様だった。あるいは、そうするしか無かったのか。
【ある介護者の集まりで】
数年前の事だ。ある介護家族の集まりで、私と同じように奥様を介護されているご主人が発言されていた。「介護をしている人間は皆、心の中に闇を抱えているんだ。いつもそれと闘っているんだよ」周りには介護歴の短い人が多かったせいか、その場はさらっと流れたが、私には心の闇という言葉が決して大袈裟には思えず、心に染みた。ああそうなんだ、私だけではなかったんだと・・・。
別の機会には、若年性認知症のご主人を抱え、不安を覚えながらも恥ずかしくて誰にも打ち明けられずに、介護作業を自分だけでやっていこうとしている人がいた。するとある人が、「そこを解脱しないといけないんだよね~」と言った。周りからは「解脱って」とその大胆な表現に驚きながらも、優しく賛同の声があがった。
まったく介護するって本当に大変なことだ。なにしろ心の中に闇を抱えながら、解脱もしていかなくてはいけないのだから(笑)。
私は走り出したくなる様な後悔をエネルギーにして、お母さんに申し訳なくて、自分が許せなくて、罪滅ぼしに一生懸命介護しているのではないだろうか。そう考えると心の中にすっきりと納まる。介護が大変で辛い時でも「お母さんが悪い訳ではない、私の方が悪いのだから」と心の中で呟いて頑張っている様なところがあるからだ。結局はお母さんの為では無く、むしろ自分の為にやっているのだ。そうに違いない。それなら分かる。そして暫くはそう信じていたし、納得していた。
でも本当にそれだけなのだろうか。何か違うのではないかという思いはどうしても消えなかった。
私はよく夢を見る。そして先日お母さんの夢をみた。
病気のお母さんは何故か知り合いに連れ去られて、ぞんざいな扱いを受けていた。放っておかれて寒そうだった。私は必死で連れ戻しに行き、お母さんをおんぶして我が家へと連れ帰った。途中で私は「ごめんね、ごめんね、寒かったろう。トイレは行きたくなかったかい?お父さんが居なくて不安だったろう、ごめんね。もう大丈夫だから」とつぶやきながら、心はお母さんへの溢れる思いで一杯だった。私は泣きたかった。ここで目が覚めた。その時、布団の中の現実の私もまったく同じ様に、お母さんへの文字通り溢れる思いで破裂しそうだった。こんな事は現実の世界では生れて初めての経験だった。それは男女や夫婦間の愛情とも違う、むしろ親子の情に近い、激しくも無く、優しい気持ち。決して何の見返りも求めていない、打算や偽善も無い、そして理由もない・・。夢が教えてくれたのは、心の奥底に眠っている私の本当の気持ちなのだと分かった。そうなんだ。お母さんの介護を私はやりたくてやっているんだ、理由なんか無いんだ。
こんな優しい気持ちがこの私の中にあるなんて今まで思ってもいなかった。人生も終盤になって、それを気づかせてくれた、いや、心に芽生えさせてくれたお母さんには本当に感謝するばかりだ。きっとお母さんに会わなければ、お母さんが病気にならなければ私は一生こんな気持ちを持つことなんてなかったと思うよ。ありがとう、お母さん。
でも、本当はお母さんがもっと元気な頃にこの優しい気持ちに気付いていたらと、お父さんはまた後悔しそうだよ、お母さん。(終わり)
◇◇◇◇◇◇◇◇
実はこれが私の最後の投稿になります。
お母さんは8月から発熱を繰り返すようになり、現在入院しています。それに伴い色々な事があり、お母さんを長期入院させる事に決めました。在宅介護を諦める事は私にとって、とても辛い決断でした。6年以上お世話になった、あおぞら診療所さんともお別れです。この間お母さんに、自宅で私の考え得る最高の介護が出来たのも、診療所の先生や支えて下さった皆様のお蔭です。本当にありがとうございました。
でも、私とお母さんの介護生活は、まだまだ続きます。
介護のレベル 2018年11月12日
患者様ご家族(H.N様)
それはいつの間にか始まっていた。しかも思いがけない方向からだった。私はしばらくの間その事には気付かないで、いつもとは違う目の前の状況にただ振り回されていただけだった。そして、介護する事が少しずつ苦痛になっていた。
お母さんと私の介護生活のレベルが、実は一段階進んでいたのだった。私は、考えたくはなかったけれど、お母さんの病状がこの先進んでいく事や、それに伴って介護のやり方や、二人の生活が段階を得て変わっていくだろうと漠然とではあるが予想していた。先々必要となるであろう事柄の情報を集めて、知識を蓄えようとしていた。誤嚥や肺炎、吸引や気管切開、筋肉の拘縮・・私はどうしたら良いのか、私はどこまで耐えられるか。
しかし現実はお母さんはびっくりするほど元気で、病状に特に大きな変化は無く穏やかに過ごしてくれていた。時々熱が出たり、血圧が高い状態が続いたりする事はあるけれど、支援して頂いている皆様のおかげで大事には至らず、元気で頑張ってくれている。
変わってしまったのは、私の方だった。足腰に力が入らなくなり、歩く事さえ辛くなってしまっていた。以前からその兆候があり、整形外科に通ったり少しリハビリで訓練を受けたりしていたが、当時は生活に影響が出るほどでは無く加齢のせいだろうと思っていた。それがここ数年で明らかに進んで、今では杖無しには外は歩けないし、家でも立ち仕事はひどく苦痛となった。結局、私自身も介護認定を受けヘルパーさんに家事等の支援をして頂く事になってしまった。
当然お母さんの介護や家事も出来なくなったり、辛くなったり、時間がかかるようになったりした。おむつ交換や胃ろう、入浴介助、デイやショートへの送り出し、洗濯や布団干し等々。これは私にとってまったく想定外の事だった。私はお母さんとの介護生活において、私自身はいつまでも元気だと勝手に思い込んでいたのだ。そして、それは間違いだった。
例えばおむつ交換も、自分の身体が思う様に動かなければ、こんなに大変な作業は無い。当たり前だ。おむつ交換なんて慣れたら大した事ではない、なんて介護が分かった様な気になってうそぶいていた自分が恥ずかしい。老々介護の大変さの一端も少し理解出来るようになった気がする。介護する自分も老いて変わっていくのだ。
ケアマネさんと相談して、介護サービスを追加で目一杯受ける事にした。おむつ交換はヘルパーさんに追加で毎晩来てもらったり、一日の交換回数も減らした。私がベッドのお母さんの様子を見に行く回数も激減した。椅子から立ち上がるのがつらいのだ。そう、お母さんには悪いけど、介護の質を少し下げる事をも私は自分に許した。これは私には辛いことだけど、無理して格好つけても仕方が無い。何より続けることが大事なのだ。
今になって考えてみると介護の世界もなかなか奥が深い。お母さんが要介護1から寝たきりになった現在の要介護5までの介護を通じて、私は勝手に介護とは何かを一通り分かった気になっていた。どういうことがあり、どうすれば良いのか、何を考えておけば良いのか・・・。しかしそれはたくさんある様々な介護の形態の、ほんの一部でしかなかった。「百人居れば百通りの介護がある」月並みな言葉だけど、私は自分の介護生活が変わっていくにつれ、つくづくそう考える様になった。
介護って一括りでこういうものだとはなかなか言えないものだし、人によって、状況によって正解は違う。例えば施設に入れることをゴールの様に言う人が居て、私にはとても理解出来なかったけれど、最近はそれも数ある介護の一形態なのだと思えるようになった。身内を施設に入れる人だって、様々な感情があるのだ。だれも大喜びで大切な人を施設に預けている訳では無いのではないだろうか。
TVである介護関連の団体の人が言っていた。
「介護対象者に対してもっと良いことを何かしてあげようとすると、それは往々にして介護者自身の負担を増やす事になる。それが問題なんだ」
シンプルな言葉で当たり前の話にも聞こえるが、さすが事の本質をついているなと感じた。この人は分かっている。介護者は誰でも少しでも良い介護をしてあげたいと思って日々悩んでいるのだと思う。だから私が頑張れば、要領よくやれば、情報を集めて先取りすれば少しでもお母さんの為になると思って続けてきた。朝から晩まで分単位のスケジュールでお母さんの為に頑張ってきた。しかしそれが出来なくなった今改めて考えてみると、先の言葉は逆に介護者の負担を減らそうとする時の問題をも言っているのだ。今度は私の負担を減らそうとすると、やってあげたいと思う介護が出来なくてお母さんの介護の質を落とさざるを得なくなっているし、今まさに私はそれで悩んでいる。
よく考えると介護の問題というのはお母さんでは無く、私自身の問題なのだ。こういう状況で、私自身は一体どういう介護をしたいのか。お母さんに何をしてあげたいのか。お母さんにどうあって欲しいのか。そもそも論を今また新たな気持ちで考えている。
私は、どういうレベルの介護であってもお母さんには穏やかでいてほしいし、苦しまないでほしい。そして何より生きていて欲しいのだ。
介護へのこだわり 2018年11月11日
患者様ご家族(H.N様)
私には介護するに当たっていくつかのこだわりがある。こだわりと言ってもそれは私には当たり前だと思われる事を、きちんと皆さんに言ってお願いする事だ(介護業界の常識にはとらわれずに)。その一つがお母さんを清潔にしてあげる事だ。例えば入浴の回数。
「毎日入れてあげたい。だって皆さんもそうでしょう?」
「病人は寝ていてそんなに汗をかかないので、毎日でなくても良いのでは。週1~2回の人も・・」
「寝ていても汗はかくし、だいいち毎回おむつに排泄をしているのですよ」
「おむつ交換の時は陰洗をやっていますから」
「入浴と陰洗では・・・」と、こんな感じ。
洗い方についても注文をつける。
「そこ遠慮しないでいいから、ちゃんと洗ってください」
こだわったお蔭で、なんとか入浴については実現できたし、清潔も保てて褥瘡等も一度も出来ずに済んでいる。現在は、ヘルパーさんの人手不足等の理由で毎日は無理になってしまったけど。
実は私のこの清潔へのこだわりには私なりの個人的な理由があった。小さい頃のある苦い経験が、介護する様になってから時々私の心の表面に浮かんでくる為だった。この時に私が感じた気持ちを子供達や孫、何よりお母さんには絶対に味わせたくなかったからだった。
多分就学前の頃の記憶だと思う。盆正月とかのタイミングで、父親の実家に家族でよく行った。そこはすごい田舎だった。母親の実家も割と近くだったので、どちらにも一泊ずつしていた気がする。
実家には父の母親、つまりおばあちゃんが病気で寝ていた。子供の眼にはすごいお年寄りに見えたけど、せいぜい7~80歳だっただろうか。大広間の横の小さな和室にいつも寝かされていた。意識は普通にはっきりとしていたと思う。まだ、ヘルパーさんや介護保険も無い時代だった。
古い農家の独特の匂い、重たい布団のかびくさい匂い。隣の広間からは、線香のかすかな香りも。何故か、枕元の隅の方にオマルがひっそりと置いてあった。そして、病人特有の饐えた匂いが部屋中に充満していた。私は嫌だった、この部屋の全てが。逃げ出したかった。布団の周りには親と数人の親戚の人達が集まっていた。
「ほら、おばあちゃんのところに行きなさい。」とそっと背中を押された。
汚いと思った、おばあちゃんも布団も・・。私は黙ったまま母親にすがりついて、行かなかった。何度か皆にやさしく促されたが、どうしても汚くて臭いこの部屋が嫌だった。でもそれを口に出してはいけないのだという事は、なんとなく感じていた。おばあちゃんはこちらを見て笑っているようだった。私は心の中ではおばあちゃんにとても悪い事をしているのだと判っていた。もともと内気で人見知りの子供だった私は、その場はそういう事で切り抜けた。
お母さんにはこんな思いを絶対させたくない。子や孫におばあちゃんは汚いなんて絶対に思ってほしくない。これが理由だった。入浴は毎日させる。身体、特にお尻まわりを石鹸でごしごし洗う。匂いは徹底的に排除する。「病人のパジャマやシーツ(時にはオムツも)が少しくらい汚れていても誰も何とも言わないよ」なんて、とんでもない!
しかしお母さんの病状が進んでくると、これら自宅での作業も段々と大変になってきた。それでも私は、お母さんをより清潔に出来ると信じていた自宅での入浴にこだわり続けた。私自身も作業を手伝う事にして何とか続ける事が出来た。周りからはそこまでやらなくても良いのでは、やり過ぎではとも言われた。これらのせいで私は嫌われ、怖がられていたのかも知れない。ある人からは、過剰介護だと陰口を言われたりもした。確かに結構重たいお母さんを抱えるのは、手伝ってくれる皆さんには大変そうだった。今思うと申し訳ないという思いもある。周りに迷惑をかけながらここまで私が清潔にこだわってきたのは、ひょっとすると亡きおばあちゃんへの罪滅ぼしのつもりも、心の奥にはあったのかも知れない。
でもね、私と同じケアラーの皆さん。何か一つでも人任せにするのではなく、自分で介護にこだわりを持つことで良い事もあるのですよ。お母さんにこうしてあげたいと強く思う事で、日々の介護に前向きになれるきっかけになったのです、義務でやらされている介護では無くて。私はそう感じています。
気持ちが通じ合う 2018年11月5日
患者様ご家族(H.N様)
お母さんが目をパッチリ開けて天井をじっと見つめている。つい先ほどまで気持ちよさそうに眠っていたのに。こういう時、実は何かを私に訴えている事がよくある。とは言え私に分かることは、寒いとか暑いとかぐらいしか無い。手足や頬を触ってみるとすごく冷たい。これはヤバイと思って急いで毛布や布団を肩までかけてあげる。暫く様子を見ていると、顔が穏やかで幸せそうになって、また気持ちよさそうに眠りに入り、私はほっとする。もしかしてこれは、二人の気持ちが通じ合えたと言えるのだろうか。しかし、ことはそう簡単では無い。手は冷たいけれど頬は暖かいとか片足だけ冷たい等々。こうなるとお父さんにはお手上げだ。「お父さん、寒いよ~とか暑いよ~とか言ってくれないと、お父さんには分からないよ」とお母さんについ愚痴を言う。
【ある日の昼食】
今日のお昼はスパゲッティだ。お母さんも好きだし、お昼によく作る。麺の茹で時間を確認してから沸騰しているお鍋に入れる。待つ間に玉ねぎとひき肉を炒めて、そこに茹で上がった麺を入れて軽く味付けする。さらに、温めておいた市販のレトルトのナポリタンのソースを入れてかき混ぜれば、出来上がり。簡単だ。我ながら良く出来ているし、美味い。玉ねぎとひき肉の食感がいい感じだ。しかし最後に混ぜながら気付いたのだけど、今日は麺が多い、作り過ぎだ。麺の量は目分量なので仕方が無いし、ここはお父さんが頑張るしかないな。しかし、お父さんの皿にメガ盛りでのっけてもまだ多い。悩んだ末にお母さんの皿にも超大盛りだ。フライパンを洗いたいから仕方が無い。残すだろうけど、まあいいか。
お母さんはいつもの様に、美味しい美味しいと言いながら食べ始めていた。病気になる前なら、「何これ、多すぎる。こんなに食べれないよ。見ただけでお腹いっぱい・・!」とか言って、さんざん文句を言うはずなのに。私はというと、食べても食べても減らない感じ。これは罰ゲームだな、とか思いながら最後まで頑張った。お母さんは美味しそうに食べ続けて、なんと完食した。普通の倍近くはあったスパゲッティを食べてしまった。私は心配になって、
「お前大丈夫か?残しても良かったんだぞ」
「うん大丈夫だよ。美味しかった~」と笑顔。
元気な時だったら絶対食べきれないのに。私は驚いたけれど、これも病気のせいかも知れないと思った。よく分からないけど、食の好みが変わったように、満腹中枢がどうのこうの・・とか。それにしてもこの時の光景は数年経っても何故か思い出してしまう。本当に美味しくて完食したのか、それともお父さんが今までめったにしてくれた事も無い料理を頑張っている事に気を使って、無理に食べてくれたのか。でもあの時の笑顔は本物だったよなあ。
だけど、今でははっきりと分かっている。あの頃お母さんは、何も出来なくなった自分を介護してくれるお父さんに感謝すると共に、随分と気を使ってくれていたんだと思う。
【ある日の散歩】
いつものようにお母さんと夕方早くに散歩に行くことにした。ぼたん寺だ。最近は少し危なっかしいので、必ず二人で行くことにしている。そして、分かれ道では先に歩いているお母さんがこちらを振り向いて、どちらの方向へ行くのか必ず確認してくれる。少し疲れると身体が左に傾いてまっすぐ歩けなくなり、道路を斜めに歩き出してしまうので、軽く道路側から押さえてあげる。片道約30分。ぼたん寺にお参りし、暫く境内を散策してから帰途につく。
寺を出るころから、お母さんの体の傾きが強くなり、結構強い力で私を押し返してくる様になった。今日は結構疲れてしまったのかも知れない。その内に、足もふらつくようになり、私に抱きかかえられるようにして歩いている。やばい、こんな事は初めてだ。まだ、家までかなり距離あるぞ。とにかく一歩でも先に進もうとヨイショ、ヨイショと声を掛けながら歩いて、やっと家までの三分の一くらいの所まで来た。あと三分の二だ。私は休憩した方が良いのか、とにかくこのまま行った方が良いのか迷っていた。小さな工場のトタン塀の脇に自動販売機があったので、立ち止まることにした。座り込んでしまう様子は無かった。お母さんの好きなリンゴジュースを買って渡したら、ごくごくと飲んでいた。のどが渇いていたのか、それとも甘いものが欲しかったのか。私は先を急いだ。頭の中では、もしお母さんが今歩くのを止めて座り込んだらどうしようと考えていた。途中で何度か休憩すればおんぶして帰れるだろうか。まだ一キロ弱あるしとても無理だ。そもそも、背中にきちんとおんぶする事が難しいような気がする。タクシーを呼ぶか。電話番号を携帯に登録してないな。それとも通りがかりの車に訳を言って助けて貰おうか。
そうこうしている内にあと三分の一くらいの所まで来た。お母さんの顔はもう必死だった。しっかり前を向いて、はあはあ言っていた。ここで座り込めばもう歩き出せない事を分かっている様子だった。そろそろ少し薄暗くなってきた。ここら辺りは広いネギ畑が続き、少し高台になっている。畑の奥には遠くの方まで家々の屋根が密集していて、赤みがかった空を背景に無数のTVアンテナと電線がくっきりと映し出されていた。まるで三丁目の夕日だ。
お母さんに「大丈夫か?」と聞くと、「大丈夫よ~!」と声だけ強気の返事が返ってきた。ここまで来れば、最悪でも近所の家に駆け込み、お母さんを看てもらって私が家から車で迎えに来ることも可能だ。お母さんにもうすぐだぞと声を掛けながら、だましだまし何とか家までたどり着くことが出来た。お母さんは倒れ込むように布団に横になった。私は心からほっとした。お母さん、よく頑張ったね。
暫くして、お母さんがか細い声で何か言っている。「おいしかった」「え?何が」「あっ、リンゴジュースか?」お母さんはゆっくりと頷く。「あそこで飲んだリンゴジュースが美味しくて、元気が出たのか?」また、ゆっくりと頷くお母さん。私はあの自販機の所での休憩が大正解だったのだと思った。
いずれも、病気のお母さんとお互いに気配りをしながら、まだなんとか気持ちが通じ合えていた頃の思い出です。
B子さん 2017年10月14日
患者様ご家族(H.N様)
お母さん(妻)は病気になってから、それまでとは話しぶりが随分と変わってしまった。もちろん、認知症のせいでなかなか言葉が出てこなくなった事も原因の一つだ。
「ほら、あのえ~と・・」と言ってしばらく考える。「え~とあの、箱の中で喋ってるやつ」
「テレビのことか?」「そうそう、そんな感じ」とまあ、こんな感じ。
でも暫くして、変わったのはそれだけでは無い事に私は気が付いた。まるで子供の様に純真になって、良かれ悪しかれ、本心をさらっと私に言ってくれる様になったのだ。普通の大人なら持っているであろう色々なしがらみから、突然解放されたかの様だった。
ある時、子供同士が同級生だった時の友達という人が、お母さんの具合を心配して、訪ねて来たことがあった。この頃は、そういう事がままあった。
家に居る事が多いお母さんも喜ぶだろうと、「お友達が心配して来てくれているよ」と背中を押すようにして玄関から出してあげた。そして暫く談笑して戻ってきた。
「どうだった?」
「あの人、友達じゃないよ」
「え?、でも子供の同級生のお母さんでしょ」
「そうだけど、友達じゃな~い」
「でも、何故わざわざ来てくれたの。また、選挙か何かかな」
「知らな~い、でもそうかもしれない」
私はいつもとは違う、お母さんのその正直ではあるけれど、あまりにあけすけな物言いに、驚いたものだった。
お母さんは19才の時に田舎から一人で上京して来た。そして、結婚して時間が出来てからは、同じようにこちらに来ている中学の同級生数人と連絡をとって、時々会う様になっていた。お互いに子供が出来てからは、育児の悩みを相談しあったりしていたらしい。我が家の息子に女の子の服を借りて着せたらとても可愛かったとか、お母さんは時々その日の事を話してくれたりした。この当時私はそのうちの誰とも会った事は無く、楽しそうな皆の写真をたまに見せて貰っていただけだった。暫くして、もう一人と連絡がついて仲間が増えたそうだ。B子さん。
病気になってから、お母さんはそういう集まりにも参加出来なくなってしまった。それで皆で我が家にお見舞いがてら来てくれるようになり、昔の仲間に囲まれて嬉しそうだった。そのうち段々と病状が進むと、遠慮からなのだろう、回数は自然と減っていった。
それでもB子さんは、たまに一人で来てくれる事があった。もうスムーズな会話も出来ないお母さんを、少し離れた公園まで散歩に連れ出してくれた。お母さんは子供の様にはしゃいでいた。その夜お母さんは、一つ一つの言葉を絞り出すようにして、私に話してくれた。
「B子さんはね、私のあこがれの人だったの。美人で頭が良くて」
「それで、友達になりたいなって、ず~っと思っていたの」
「でもなれなかったのかい?」
お母さんは下を向いて黙っていた。
「でも良かったじゃないか、今は友達になって」
その後お母さんが寝たきりになり、もう家族の事も分からない様になってから、B子さんが思いがけずに来てくれた事があった。お母さんはいつもの様に口を大きく開けていびきをかいて眠っていた。
「Aさん(お母さんの旧姓)が私と連絡をとって仲間に誘ってくれたことが、とても嬉しかったのですよ。懐かしい仲間と会いたいと思っても、なかなか連絡がとれなくて・・」
とB子さんが私に言った。私は胸に仕舞っていた事を言ってしまいたくなった。
「お母さんはね、中学時代、ずっとあなたと友達になりたいと思っていたんだって。
あなたに憧れていたんだって言ってたよ」
B子さんは驚いたようだったけれど、少しの間無言だった。きっと、40数年の月日をワープするのに時間が必要だったのだろう。
「そう言ってくれれば良かったのに。私も、いつも明るくて友達も大勢いるAさんと友達になりたかったのに。そう言ってくれれば良かったのに・・・」
心なしかしんみりと、B子さんは言った。
私はお母さんに怒られるかも知れない、余計な事をしたって。確かにそうだね、私は余計な事をしてしまったのだろう。
でも、いつかどこかで元気なお母さんに会うことが出来て、こってり怒られるのなら、それもまたいいかも知れない。いつまでも怒り続けている事が苦手なお母さんは、きっとそのうち私の事を許してくれるだろうし。
お母さんの気持ち 2017年4月24日
患者様ご家族(H.N様)
いつもの農道を通って車で柏へ向かう。2016年の晩秋も終わり、もう初冬だ。道端の木々は赤や黄色に色づいたり、既に裸になって冬支度を終えていたりする。今朝の空は気持ち良く晴れて、空気も透明で冷たく澄んでいる。信号も無い曲がりくねった細い道を、CDのボリュームを少し上げて久しぶりの遠出を楽しみながら、私は病院へと車を走らせていた。聞くのはいつも60’sのPOPS。
今走っているこの農道は、随分前にお母さん(妻)に教えもらった道だった。看護師のバイトで柏に行く時にいつも通っていると言っていた。私が作った宇多田ヒカルのテープを大音量でかけて、大声で歌いながら走らせるととっても気持ちが良いのだとも。信号は無いし、交通量も当時は今よりも少なかったのだろう。
でも私にはお母さんが運転をしながら歌っているなんて想像も出来なかったし、日頃のお母さんからはとても考えられない大胆さに、その時は内心とても驚いたものだった。鈍感な私は分かっていなかったのだろうけど、三人の子育てや、家の事にはかまってくれない私に対して、きっと当時のお母さんなりに色々なストレスが溜っていたのかも知れない。
今日はお母さんをデイに預けて、私の胃の定期検査の結果を聞きに行くのだ。年に1回のこの検査も、もう9回目になる。
農道の見慣れた風景はいつもと変わらないけれど、カーステレオから流れる曲は、遠い記憶の中に留まっている青春の懐かしい残り香を車中に漂わせ、私の胸を少しだけ締め付ける。
お母さんは今頃デイのベッドに寝て、何を感じているのだろう。じっと天井を見つめながら何を思っているのだろう。私は、お母さんが病気になる前は勿論、病気になってからもお母さんの気持ちを少しでも理解していた事があっただろうか。
お母さんが病気になって、私はどうして良いか分からずにもがいていたが、きっとお母さんだってそれ以上に自身の現在とこれからの事が、本当はとても不安だったに違いない。そんな気持ちを私はきちんと分かってやれなかったし、逆にいつも明るく振舞うお母さんに支えられていたような気がする。この頃の私は、お母さんが本当は辛い思いをしているかも知れないなんてあまり考えてもいなかった。私自身がいっぱいいっぱいだったのだろう。今頃になってやっと色々な事の意味が分かってきた様な気がする。それも少しずつ。
窓外を見ると、空には輪郭のはっきりとした真っ白い大きな雲が、子供達を引き連れて幸せそうにゆっくりゆっくりと右の方へ流れて行く。どこまでも、どこまでも。
あの雲は何故落ちてこないのだろうか、と突然思った。お母さんはどうして今ベッドに寝ているのだろう。私は一体今ここで何をしているのだろうか。
まったくこの世界は、答えが分からない事ばかりだ。
【2009年2月】
最近は暖かくなったり、急に寒くなったりでお母さんの調子もイマイチだ。先日は、ヤカンを前後逆方向に持ち、運びながらダラダラと水をこぼしていた。しかもどうしたら良いか分からず、パニック状態。まあ火傷しなかっただけでも、良かった。
寒い日には暖まるようにと、ヘルパーさんが豚汁をよく作ってくれる。それで、お父さんの料理当番の日には、似た様ないつもの具だくさんの味噌汁では可哀そうだと思い、前日の夜の内に頑張ってシチューを作った。とにかく、次の日の昼・夕ともたせなくてはいけないから、どうしても鍋ものになる。
とは言え、お父さんのシチューもイケルようになったぞ。ブロッコリーなんかも入れたりして。
先日、味噌汁を温めようとしてお母さんが鍋を焦がしてしまっていた(IHだからその後自動停止したけど)。それで、朝の会社への出がけに、今回のシチューは焦げやすいしすぐ温まるから、温める時は鍋の前から離れるなよって、二回も念を押したのがまずかった。夜帰ったら、全然シチューに手をつけてなかった・・・
お母さんはニコニコして、「鍋焦がすのが怖かったから、食べないでおいたよ」、ってなんか良い事をしたような口ぶりだぁ~。がっくり。シチューを温め直したらお腹が空いていたらしくて、たくさん食べていた。
【2009年10月】
最近になってやっと分かったけど、お母さんは昼間ひとりでとても淋しいのだね。当たり前だよね。1日中、家にいたらそれは淋しいよ。友達のお誘いも減ってきたし。だから、色んな集まりに誘われたりしたら喜んで参加している。近所のおばさん達のお喋り会とか、近隣センターでの体操とか。この前までは、出来もしないのにテニスの会とか。
テニスはやった事が無いので一人でずっと体育館で壁打ちをしていたらしい。そして周りの人があまりに可愛そうになって、審判をやらないかと言ってくれたそうだ。でも出来なかった。数を数えられないし覚えられないから、病気のお母さんに出来る訳ないよね。その後はもう声を掛けられなくなった様だ。当たり前だね。
きっと周りから、あの人は毎日ひとりで壁打ちして帰っていくけどどんな人?楽しいのかな?変な人、って思われていたのだろうね。それでも、お父さんがもう辞めたら?と何回言っても、なかなか辞めなかったなあ~テニス会。ずっと一人で壁打ちしてたんだね、きっと。
【2010年12月】
今日はチャンポン屋さん。家から車で20分位の処で、私が好きなこともあってちょくちょく食べに行く。お母さんも、野菜が結構入っているし豚骨スープも好きなので、いつも美味しそうに食べている。他の客に迷惑を掛けないように、隅のソファー席がいつもの場所。お母さん用に、塗り箸では無く食べ易い割り箸を持ってきてもらう。何を思ったのか、突然早食い競争でもしているかの様に必死で食べ始める。
「もう少しゆっくりでいいんだよ」と私。
「そう?、これくらい?」
「そうそう、それくらい」
お箸で麺をたくさん口元へは持っていくけど、口へ入るのは少しだけ。残りは下へズルズルと落ちてしまう。私は麺がテーブルにこぼれない様に、丼の位置を少し動かしてあげる。ナイスキャッチ!だからどうしても時間はかかる。お母さんはそれを気にしていたのかも。でも、本当に美味しそうに食べる人だ。
お店を出る時お母さんは、「私、上手だった?」と私に聞いてくる。テーブルの下に、多少こぼしてしまったので店員さんには謝っておいたが、「うん、とても上手だったよ」と私。
お母さんは、他の人と同じようにまだ上手に食べられるし、普通に生活が出来ると皆に思ってもらう事がこの頃とても大事だったのだ。
【2011年12月】
昨日お父さんが台所で大きな音を立てたら、ベッドのお母さんが目を覚まして、「お父さんが居ない」と涙目になっていた。そして何か一生懸命言っているがよく分からない。何度かのやり取りのあと、「お父さんが居なくなると、色んな人にご飯ください、ご飯くださいと言わなければいけない。だから困る。心配している。」という事らしい。病気になってからのお母さん独特の言い方だけど、自分の生活(生死)を他人に委ねるしかないという事が分かっているし、不安なのだ。毎日どんな気持ちでいるのだろうか、お母さん。
◇◇◇◇◇
この時期は車で買い物にもよく連れて行った。駅前の大きなスーパー。お母さんは家に居るより、とにかく外が好きだ。社会と触れ合っていたいのだろう。
スーパーの駐車場で助手席から降りようとして、もたもたしている。そのうち両手でドアをドンドンと叩きだす。「なにやってんだ!」「ドアが開かないの」。
車のドアの開け方が分からなくなったのだ。昨日まで普通に出来ていたのに。私は悲しくなった。
「お前、冗談だろ。その取っ手を引けばいいじゃないか」
「でも開かないの」と、両手でドアを必死でたたき続けるお母さん。
この日からお母さんは車のドアの開け閉めが出来なくなった。色んな事が、ある日突然出来無くなる。一度出来ないと、いくら教えてももう二度と出来ない。玄関の開け閉め、水道のレバー、電子レンジの使い方・・・
そういう事が少しずつ増えていく恐怖。お母さんはこの頃、そういう事とも戦っていたのだ。それでもお母さんはいつも私には明るく振舞ってくれていた。まるで、自分の馬鹿さ加減を笑ってでもいるかのように。でも、きっと内心は不安でとても辛かったのだろうね。そして一生懸命に自分の病気と、侵されていく脳と戦っていたのだ。偉いよ、お母さんは。
それにしても、何故お母さんが?とつい思ってしまう。単純で素直で決して悪い事なんかしたことも無いお母さんなのに、何故こんな事になってしまったのだろうかと思わずにはいられない。口には出さなかったけれど、きっとお母さんも思っていただろうね、「なんで私が、私なの?・・・」と。
今、お母さんは寝たきりになり、自分では何もすることが出来なくて、そして周りとのコミュニケーションもまったく取れない。殆ど一日寝ていて、眼を覚ましていても静かに天井をじっと見ているだけだ。私はというと、日々の家事と介護の忙しさに追われ、一日一日をただ消化しているだけ。お母さんの気持ちなんて考えてあげる事もしないで。
それでも、私には最近になって少しだけ分かってきた事がある。
本当は今のお母さんにはお母さんの宇宙があり、その中でちゃんと普通に元気で生きているのかも知れないという事。
天井をじっと見ている時だって、よく見ていると表情が時折り変わることがあるし、時には眼球がゆっくりと左右に動いて何かを追っている様に見える。たぶん幻視だ。お母さんにはこの世界では無い何かが実際に見えているのだ。そうだとしたらそれがお母さんにとっては現実なのだ。何が見えているかは分からないけれど、きっとその世界の中に入り込み、お母さんは今を生きているのだと思う。
認知症と共にお母さんの幻視にはこれまで随分悩まされてきた。そして私が愚かだったのは「お母さんには本当に見えているのだ」という幻視の単純な事実を理解していなかった事だ。見えていると思い込んでいるだけなので、理を尽くして説得すれば幻だと分かってくれる、そして馬鹿なことは言わなくなって幻視も治まると、漠然と思い込んでいた事だ。
階段の上に怖い、知らない男の人が居るとか、小さなおじさんがコタツからすうっと現れるとか、突然真顔で私に訴えるお母さん。そんなものは居ない、居るわけがないだろうと大声を出して、まるでお母さんが嘘でも言っているかの様に私は頭から否定したものだった。「馬鹿な事を言うんじゃない!しっかりしろ」。
そういう時いつもお母さんは、震える手で指さしながら「だって、ほら!」と、すがるような眼をして私に言ったものだった。しばらくして変なことを言う回数が減ったので安心していたら、変な男の人が勝手に家に入ってくると、近所の人に涙ながらに訴えたらしい。この時は警察沙汰になってしまった。お父さんに言っても怒られるだけだと思って、ずっと我慢していたのだ。お母さんにはまた辛い思いをさせてしまった。
その後、私は何とかならないかと精神科の先生にこの件を相談した。そして処方された薬の副作用がお母さんには強く出てしまい、私はもうどうして良いか分からずパニック状態。この幻視の件は、私のあまりの馬鹿さ加減に思い出すと今でも辛い。
全て私の対応が悪かったのだ。怖いおじさんも小人も実際に見えていたのだし、それはお母さんにとっては現実だったのだ。私が理解しようとしなかった単純な事実。(だって、ほらそこに居るじゃない!)
今、ベッドのお母さんと時々眼が合って、じっと私を見てくれる時にはこちらの宇宙と繋がっているのかも知れない。そういう時はもしかすると、話しかけたことを分かって呉れているのかも知れない。そうで無い時には割と穏やかな顔で天井を見つめながら、時折り口元に笑みさえ浮かべたりしているので、きっと怖いおじさんは居無くて、自分の世界の中で幸せに元気で暮らしているのかも知れない。私はそう願うばかりだ。そちらの世界にもお父さんは居るのかい?
いずれお母さんは理由も言わずに一人で遠くへ、完全にお母さんの世界に行ってしまって、もう戻って来なくなってしまうのだろうか。そして私はどうしたらそれをありのままに受け容れる事が出来るのだろうか。せめて今のお母さんの気持ちをそのまま受け入れて、もっと寄り添ってあげるには私はどうしたら良いのだろう。お父さんには難しくて分からないよ、お母さん。
そこの幸せそうな雲よ、知っていたら教えてくれないか。どうしてお母さんなのか、どうして私達なのか、そして何故・・・。
一枚の写真 2016年4月24日
患者様ご家族(H.N様)
芭蕉の有名な句に、「古池や 蛙飛び込む 水の音」というのがある。
ある人が、この句の意味を外国人に説明するのに、「人間は自分が幸せであるという事を、それを失って初めて気付くものだ。今までどんなに幸せだったかを。」と例えて言っていた。
水の音で壊されて、改めて気が付く深い静寂がある。
失くしてしまって、過ぎ去ってしまって初めて気付く幸せもある。
幸せである事と自分が幸せだと気付く事は別の事なのかも知れない。侘び寂びで説明するより、外国人にはよほど理解して貰っていた様に思えた。
でも過ぎ去って初めて知る幸せでは虚しい。私は今までいつも、後で気付いては後悔してばかりだった。
居間のTVの上の方、鴨居の隙間に一枚の写真が挟まっていて、いつもこちらを見下ろしている。定期的にお世話になっているショートステイで、平成24年9月に敬老の日のイベントの一環でお母さん(妻)の写真を撮り、それを色紙にしてくれたものだ。
この写真の頃は胃ろうを造設してからまだ間が無い頃で、身体は痩せ顔は角張っていて、目は窪み、上着から出ている首筋は皮膚がたるんでいる。口元は、元気な時には決して見せた事はなかったけれど、だらしなく一文字に結んでいる。
この写真の数か月前には、お母さんはもっとやせ細っていて元気が無かった。殆ど飲み食いをしてくれないお母さんと、私は必死で戦っていた。いつの間にか食事には一時間もかかる様になり、最後は二人とも疲れはててやっとその日の戦いを終わらせていた。そのうち口を開けてくれなくなり、無理にシリンジで口の中に食事を入れても、今度はなかなかそれを飲み込んでくれないのだった。そういう時お母さんは力のない目で「私、どうしたらいいの?」と私を見つめていた。飲み込んでといくら言っても何故か出来なくて、自分でもどうしていいか分からないのだ。
どんどん衰弱していくお母さん、出来なくなった事が増えて行くばかりのお母さんを見ながら、私はひたすら食事と水分を与え続ける事だけを考える様にしていた。そして心の中ではこれから起こるであろう悪い事ばかりを想像しながら、最悪の予感さえ芽生えつつあった。写真のお母さんの顔を見ると、その頃のつらい思い出をどうしても思い出してしまう。
だから私は・・・この写真が嫌いだった。
写真を頂いてからもあまり見ることは無く、いつの間にかどこかに紛れ込んで無くなってしまっていた。それがしばらく前に、片付けをしていたら出てきたのだ。
改めて鴨居の写真を見ていると当時は意識しなかったけれど、この頃のお母さんには、また別の表情がある事に気づいて、私は驚いた。
お母さんの目は窪んではいるけど、今と比べればまだしっかりとしていて、眼力さえ感じられる。口元も自分の意思でしっかりと結んでいて、心なしか顔を上げて前を見つめている。つまり、多分「ハイ、チーズ」とか言われて、カメラの方を見て、一生懸命いい顔をしようと努力しているのだ、お母さん。
そうだった。この頃はもうほとんど喋りはしなかったけれど、まだ時々意思は通じていた。話し掛けにも目を見て頷く事があったように思う。自分の周りの状況も人の見分けも、多少はまだ出来ていたようだった。今思うとその頃お母さんには、まだまだ出来る事がたくさんあった。意思を持ったお母さんが確かに存在していたし、3年半経った現在とは明らかに違うお母さんがそこには居たのだった。
私は当時、その事のすばらしさには気づかないで、もう出来なくなってしまった事だけをただただ嘆き、これまでのお母さんとは違ってしまった事実だけを悲しんでいた。
「もう」と「まだ」、同じ事の表と裏。
私は改めて写真を見て、その頃たとえ応えは返って来なくても、もっとお母さんに話しかけて意思を通じ合えばよかったと、今更後悔している。お母さんに話したかった事は沢山あったのに、何も話せていない。
若いころ私は、仕事と付き合いで帰りも遅くて、家の事も子育ても全部お母さんに任せきりだった。歳を重ねてからは私は仕事のストレスで、お母さんは更年期で、些細な事で喧嘩ばかりしていた。
ごめんなさい、お母さん。もっとお母さんの気持ちや苦労を分かってあげれば良かった。安心して仕事に打ち込めたのもお母さんのおかげだった。本当はとても感謝しています。と、告げたかった。
その一言を、お母さんがまだ理解できるうちに私は言っておきたかったし、意思がまだ通じているという事の幸せに気付いてさえいれば、話す機会はいくらでもあったのに。
私はもうこれ以上後悔はしたくない。蛙が飛び込んでやっと気づく幸せでは、もう遅い。過去を振り返り失ったものを数えるのでは無く、今あるもの、残っているものを大事に思い、大切にする事が私がしなければいけない事なのだと思う。そうして、私は今幸せなのだと思ってしまえばいい。
現在だってお母さんにはまだ出来る事はたくさんある。目だって開けてくれるし、時々笑ったり、顔をしかめたり、あくびをしたりする。しゃっくりやくしゃみだって。
少しだけど、口から果物やジュースを摂ってくれる。手や足、身体は触れると温かくて、心臓は規則的に鼓動を打ち、肉体は代謝を繰り返している。そう、お母さんは今一生懸命に生きてくれている。どんな状況にあろうとも。
私はこの瞬間、瞬間の幸せを、今しっかりと感じて噛みしめていたい。
【平成27年3月22日 覚書ノートに書いたメモより】
夜の胃ろうが終わり、片付け(チューブ外し)の時だった。お母さんは目を開けて、天井を見ていた。いつもの様に唇は乾燥してカピカピだ。私はお母さんと目を合わせて、今日こそは言おうと思った。
「お母さん、ずっと家を守って大変だったのだろうね。分かってあげなくてごめんね、本当に感謝しているよ。」
「お父さんはお母さんと結婚出来て本当に良かったと思っているよ。ありがとう」
その時他には誰も居ないのに、私はとても恥ずかしくなって途中で何度か止めそうになった。それでもゆっくりと、最後まで何とか言い終えた。私は大きな肩の荷が下りたような気持ちになった。
たったこれだけの事がこんな状況でないと言えないとは。
今更ながらお母さんは分かってくれたのだろうか。それとも、今となってはもう何を言おうと未来永劫伝わる事は無いのだろうか・・・。
お母さんは私と目を合わせたまま、少しだけ口元に笑みを浮かべてくれた様な気がした。布団を掛けてあげると、とても幸せそうな顔で目を閉じてから、いつもの様にイビキをかいて眠ってしまった。
お母さんの懐かしい笑顔 2015年11月29日
患者様ご家族(H.N様)
普段何気なく出来ていて、気にもしていないけれど、今目の前で向き合っている相手と言葉や動作で意思を通じ合えると言う事は、何とすばらしいことだろう。
お母さんはいつも、開眼していても殆ど天井の一点を見つめているだけで、呼びかけには全然応えてくれず、まったく意思疎通は出来ない。
そういうお母さんと、もしかしたら意思が通じたのでは無いかと思える出来事が先日あった。
2015年11月12日午後11時頃、私は録画していた「下町ロケット」のビデオを見ながら、田舎の友人から送ってきた地元の美味しいお酒を飲んでいた。
夜の注入(胃ろう)作業も終わって、今お母さんはベッドを起こしたままで、安静にさせている。
今日最後のおむつ交換も、その前に終わっていて、お父さんはもうのんびり。一日の終わりに、今日の様にのんびり出来る日が、たまにだけどある。
いつもは介護や家事の作業に追われて、寝るまで忙しくしている事が多いのだけど。
今日の我が家への訪問者は2人だった。お昼のヘルパーさんの入浴介助と、夕方の介護用品の会社との打ち合わせ。
毎日のように、誰かしらが訪ねて来てくれる。それが、外出が難しくていつも家に居る事が多い、人と接する機会が少なくて、つい沈みがちな私の心の支えにもなっている。
ヘルパーさん達は皆、世間話が上手で気がつくと私もその日初めての会話を楽しんでいたりする。
思えば、今の私たち夫婦の生活は、それこそ色々な人達に助けて貰いながら成り立っているのだと思う。
この助けが無ければ、今のように在宅で、しかもお母さんに良かれと思う介護を、私がやってあげる事は不可能だ。最近そのありがたさをしみじみと感じている。
困ったら他人に頼る事が出来るという、安心感がある事のなんと心地良いことか。
他人に頼る事への抵抗感や恥じらいと、何でも自分で出来るという過信が足かせになって頼る事が出来ない時期もあったけど。
そろそろ胃ろう後の安静時間が終わる頃なので、お母さんのベッドの背を戻してあげよう。
「はあ~い、楽チン楽チンにするよ~、はあ~い・・・・」と、声をかける。
ベッドのリモコンで背を少しずつ倒してあげると、心なしかお母さんはいつも優しくて嬉しそうな顔になる。やはりベッドを倒すと楽なんだろうな。
もう少しで平らになる所で、ベッドを一旦止めて、口の中に残っているかもしれない唾液を飲み込ませる。いつもタオルで軽く口元を優しく数回拭いて刺激するのだ。そうするとゴックンしてくれる。
「さ~、つばゴックンだよ~」
ところが、タオルでまだ口元を拭く前なのに、ゴックンとつばを飲み込む大きな音がした。
ああ、お母さん自分でつば飲み込んでくれたんだ。ありがとう。お父さんの言った事が分かったのかな。
無意識に「お母さん、ありがとう。自分でゴックン飲み込んだんだね。ありがとう~」と、じっと顔を見て目を合わせ話しかけていた。例え通じなくても、いつも話しかける事が癖になっている。
そうしたらお母さんの顔に、見る人の心を幸せにすると誰かが言ったあの満面の笑みが、ぱあっと顔一杯に広がって、キラキラと輝いていた。
まだ子供達が小さかった頃、一緒にじゃれながら楽しそうに大声で笑っていた、あの眩しいような笑顔だ。
分かったのだ、お父さんの「ありがとう」が理解できたんだ、きっと。そしてお父さんに感謝してもらった事がそんなにも嬉しかったんだ。
ひょっとして、お母さんは周りの事を全て理解出来ていて「介護しているお父さんに申し訳ない」とでも思っていたりしているの?
それで、お父さんを手伝う事が出来てそして、「ありがとう」って言ってもらって嬉しいのかい。お母さんって、昔からそういう気遣いの人だったよね。
満面の笑みがとても懐かしくて素敵だよ、お母さん。
(でも・・・まあ本当はそんな訳無いか。考えすぎ? お父さんの優しい言葉に、ただ反射的に微笑んだだけなのかも知れないけど。)
それでもその笑顔で、私の心は久しぶりに、とても温かいもので一杯に占領され、満たされていました。介護している人だけが感じるだろう幸せ。
今までの疲れが跡形も無く消えてしまうような幸せな気分は、薄いもやの様に胸の奥に沈んで、暫らく消えませんでした。
こういう小さな幸せの積み重ねが、前に向かって生きていく力を私に与えてくれているのだよね。
これこそが、私にとっての介護の醍醐味。
美味しいお酒にも満足しながら、下町ロケットのストーリーに、お父さんはつい少しだけウルウルしてしまいました。
明日もまた、お母さんと一緒に、きっといい一日が過ごせることでしょう。
ウォーキング 2015年6月21日
患者様ご家族(H.N様)
数年前にまだ病状が軽かったお母さんと毎日のように一緒に歩いた散歩道を、久しぶりに一人で辿ってみた。道沿いには春になるといつも白いハナミズキの花、満開の桜、赤や白のツツジの花が咲きはじめて、通行人を楽しませてくれる。また沿道の家々には競うように、丸や四角の色んな大きさの鉢に季節の花々が飾られている。黄色いマリーゴールド、赤白紫のパンジー、ベゴニア・・・。
自宅を出てしばらく行った家の庭に繋がれていた、老犬ハナはもう居ない。板に書いて打ち付けてあったハナの名札も外されている。その下に首が出せるように開いていた板塀の穴も塞がれていた。
この辺りは新しい家並みが増えてきて、どんどん奇麗になってきている。細い農道のような泥道もきちんと舗装され、オシャレな街灯が並んでいたりする。
久しぶりだからだろうか、私には懐かしいはずの思い出の散歩道も、少しよそよそしい感じがした。
あそこでかがんでは、赤や黄色のお花を眺めて立ち止まり、あそこでは、他所の家の綺麗に手入れされたお庭を覗き込んで「ここ奇麗~!」と言っていたお母さん。家庭菜園の横を通ると、いつも花や野菜を手入れしている人達と大きな声で挨拶を交わしていた。
大根畑を通る時は、出荷されずに無造作に放ってある大根を見て、「これ1本くらい貰えないかしら」と言っていた。
高校の横を通るといつもの様に、野球部員のかすれて気だるそうな掛け声や、ボールがミットに入るバシッと言う音が聞こえてくる。
私は、この散歩道をお母さんと一緒に歩いた頃の思い出を、順番になぞっている自分と向き合っていた。そして心の中に自然と湧き出る懐かしさと共に、あれやこれやの思い出は少しずつ薄れかけていて、忘れつつある事に気づいてしまった。もしかして思い出せるのはブログに書いてあることだけになってしまうのだろうか。
「おかあさん、またハナに会いに一緒に散歩に行こうね」とベッドで寝ているお母さんに話しかけなくなって、一体もうどれくらいになるだろう。1年・・2年?
時の流れと共に、いずれ私の思い出も老犬ハナと共に、忘却の彼方に全て消え去ってしまうのだろうか。
相変わらず道行く人を楽しませている道沿いの花々は、もう何代も世代交代を繰り返しているのだろうし、バットを振っているあの野球部員も、あの頃と同じ部員であるはずも無い。同じ様に見えてもこの風景はあの時とは確かに違っているし、私たち二人もあの頃には決してもう戻る事は出来ない。
久しぶりの散歩道は、私に懐かしい思い出と共に、逆らえない時の流れという悲しい現実をも考えさせてくれた。
【2009年12月 3日 (木)のブログより】
最近寒くなってきたが、お母さんは風邪も引かないで毎日のように、ウォーキングと称して近所の野球で有名な高校(片道20分コース)かその先の通称ボタン寺まで(40分コース)を歩いている。ボタン寺の庭園はいつも手入れが行き届いていて、今は紅葉がとても綺麗だそうだ。
最近は近所の友達とは時間が合わなかったりやその他で、一人きりでのウォーキングが多い。昨日は、近所の女の子が朝7時半に迎えに来てくれて一緒にウォーキングに行ってくれた。女同士、お喋りをしながらの散歩は楽しいらしい。
高校へ行く途中の家に、ハナちゃんという白い犬が居るそうだ。その犬と会えるのが楽しみなんだとか。ハナちゃんは庭に放し飼いで、おとなしくてとても愛想が無い!らしい(笑)。名前は犬小屋を見て分かったようだが、「ハナちゃあん」と呼んでも、一度じろっと見るとその後は知らん振りして、お母さんはいつも無視されるらしい。だけど、またそれが可愛いんだと。行く度に、呼ぶとこちらを見て、「この人なんだ?」という顔をしてから、おもむろに向こうへ行っちゃうのだって。
ウォーキングに行く度に、今日はハナちゃんと会えるかなあって楽しみにしてる。
このウォーキングは、お母さんのQOLを考えて、出来る限り長く続けて欲しいと思っている事の一つだ。その為には、色々と工夫が必要なのだが。
数ヶ月前に、私が早く帰宅すると、我が家の駐車場でお母さんが掃除(のつもり?)をしていた。その時、下着が丸見えで本人は全然気づいて無かった。トイレの後、上着を全部ズボンの中に入れてしまい、服装がおかしいのは気づいていたが、まあ仕方がないと、放っておいた。しかし、今回はズボンがちゃんと上にあがってなかったようだ。それでも我家の前なら、誰か近所の人が直してくれるかもしれないが、この姿で、一時間前後のウォーキングに行ったら、ヤバイ。
それで、今はお父さんが出勤前に服装をチェックしてから、朝早くにウォーキングに行かせるようにしている。これからの冬場は、朝は寒くてまだ薄暗い中でのウォーキングが問題だけど・・・
お母さんは去年に比べると、出来ない事が確かに多くなってきている。時々、意思の疎通が簡単でない時もある。
それでも、あれをやっちゃダメ、これをやっちゃダメでは無く、出来るだけ自分でやりたい事はやって欲しいと思っている。
~~~~~ブログ終わり~~~~~
お母さんはまだ病気になる前の40歳代後半の頃は、友達とあちこちの山歩きをして楽しんでいた。突然富士山に登りたいと言い出した時は、自分で計画し、友達を誘って中学生の息子と3人で登ったのもこの頃だ。ご来光も拝めたようで、とても喜んでいた。
病気になってからも、ウォーキングは欠かさなかった。病状が少し進んで一人で家に居る事が多くなり、ぼお~としてTVを見ている事が増えてきてからは、殆ど唯一のお母さんの楽しみだった様な気がする。時には近所の友達と一緒に行ったり、一人でのんびり歩いたり。友達に少し迷惑をかける様になってお誘いが減っても、気にする事無く一人でさっさと出かけていた。
私は、ウォーキングは可能な限り続けさせたかった。下着が見える等の身づくろいが出来ない事や、靴がちゃんと履けなくて踵を踏み潰して歩く様になった事等、私で対応出来なくなると、へルパーさんにお昼の食事介助の後、身なりを整えてウォーキングに送り出して貰う事で乗り越えた。
そのうち、交通事故が心配になって来たので、言い聞かせて信号を渡らないようにルートを短くしたりした。
そして最終的には、定年まで2年を残して、私は仕事を辞めてお母さんの生活サポートに専念する事にした。色々戸惑ったり悩んだりしていた私だったが、病気になっても明るく振舞うお母さんを見ているうちに、まだ元気なお母さんと過ごす今の時間をとても大切にしたいと思うようになっていたからだ。いよいよどうしようもなくなって、仕方なく仕事を辞めると言うのは嫌だった。
早足で歩くお母さんに必死で私が付いて行く、夫婦二人のでこぼこコンビのウォーキングがこの後始まった。
今思うとこの頃の数年間は、二人にとって何物にも変えがたい大事な時間だった。
【2010年2月26日 (金)のブログより】
少し暖かくなってきたので、大好きなウォーキングが楽しみのようだ。
最近は、近所の女の子が迎えに来てくれて、一緒に行ったりしている。やはり、子供でも誰か連れが居てくれるとお父さんも安心だ。
お父さんが夕方帰宅して、今日はどこまで行ってきたんだ?と聞くと、
「ぼたんだま」だって!
「え、どこ?」
「ぼたんだま~」
まあいいや、お父さんには分かるから。ぼたん寺なんだけど(笑)。
【2010年1月25日 (月)のブログより】
24日には、お母さんのウォーキングについて行った。
途中あちこちで、枯れ草をむしってポッケに入れたり、霜柱を見つけては嬉しそうに踏んで歩いたり、まるで子供だね。後ろから見ていると、「どうしてこんなになっちゃったんだろう」と思わずには居られなかったよ。
【2010年1月21日 (木)のブログより】
朝、会社への出掛けに、大好きなウォーキングに行かせる。雨が降りそう。遠くへは行くなよ、って何度も念を押したのだけど心配だ。
自転車で駅前をユーターン。後を追いかける。
なかなか居ない。・・・居た!
「分かってるよ」とこちらに笑顔を向ける。そのまま、私はまた駅へ向かう。
自転車を漕ぎながら、冷たい風が目に染みて涙が出てきてしまう。
~~~~~ブログ終わり~~~~~
こういう事が続いて、私は退職を決意した。今思いだしても、辞めたことをまったく後悔していない。それから1年近く、私と二人のウォーキングが何事もなく続き、お母さんはとても楽しそうだった。
その後少しずつ身体が右へ傾く様になり、蛇行して真っ直ぐに歩く事が出来なくなった。私は寄り添いながら腕を支えて、道の端を必死になって歩かせるようにした。
お母さんはそれでも相変わらずの早足で歩き、意地でも「ウォーキングするの!」と訴えているかのようだった。
この頃になると、徐々に綺麗な花々を見ても足を止めることはなく、感動もしなくなっていた。
それから暫くすると、帰る頃には疲れて足がふらつき、私に抱きかかえられる様にして戻る事が多くなった。散歩時間も20分、15分・・と短くなっていった。
それでもお母さんは、まるで、まだ歩ける事を自分で確かめたがってでもいるかのように、毎日歩く事にこだわっていた。
2011年12月のある日、どうしてもウォーキングに行きたいと言ったので、支えながら玄関まで連れて行った。二人で必死に玄関から一歩踏み出したが、そこから先には進めなかった。座りこんでしまうのだ。ついにお母さんも・・・納得したようだった。
こうしてお母さんのウォーキングは終わった。
思い出は永遠には残らないものかもしれないけれど、でもだからこそどんな状況であっても、二人の人生が重なっている今という時を大事にしようね、お母さん。
初めての入院(その2) 2015年2月26日
患者様ご家族(H.N様)
その頃のお母さん(妻)はいつも、自分が何をしでかすか分からないという不安と、自分がした事を覚えていられない事による混乱で、頭の中はいっぱいだったのだと思う。
近所の友達と大好きなウオーキングに行っても、途中で家の鍵を失くしてしまい家に入れなくなってしまったこともある。友達に歩いた道を自転車で戻って探してもらい、やっと鍵を見つけて貰った。
この時期に財布を3個も失くしてしまった。どこで失くしたのかも分からない。スーパーに何度も探してくれるように頼みに行ったらしいが見つからない。新婚旅行で買って、大事にしていた小銭入れも失くしてしまった。
冷蔵庫を片付けるつもりで、台所中に中の物を広げてしまい、その後どうしたら良いか分らなくなってしまう。そして帰って来たお父さんに怒られる。
自分ではそのつもりは無いのに、何故かいつも自分のせいで周りに迷惑をかけてしまう。そして、段々と自分で自分を信じる事が出来なくなってしまう・・
入院して最初の日、お母さんは夜中に尿意を感じて目覚めた。何処に居るのか分からない。でもお漏らしなんか絶対してはいけないと思うだろう。また誰かに迷惑をかけたくないし・・・。
そして、ベッドから落ちてしまった。
結局、お母さんは入院中夜間はずっとベッドに拘束されることになった。それはお母さんの安全のためには、仕方が無い事だと頭では分かっている。今では完全に理解している。しかし、それを初めて聞いた時の私の頭の中は、お母さんが病気になってから今までずっと抑えていた、すべてに対する怒りのような感情でいっぱいになってしまった。
お母さんが病気になった事、それでも二人で今まで苦労してきた事、入院した事、そして結局は何も出来ない私、に対して。
「何故、お母さんなのだ」そして、「何故、私なのだ・・・」と。
そして何にもまして一番切なかったのは、お母さんがその日の朝ベッドでまるで謝るような、諦めたような、それでいて穏やかな顔で私を見たことだ。
「また、私が何かやってしまった」、「また、きっと他人に迷惑をかけてしまった」、「お父さんに怒られるかも知れない」。拘束についても、きっと自分が悪いから仕方が無いのだ・・・とでも思っている顔。
【2011年5月27日 (金) のブログより】
入院2日目の朝、私はいつもより早起きして、お母さんの朝食(7時~7時半)に間に合う様に6時半前には家を出た。まだ早いので、道は空いており駐車場もがらがらで、7時前には病院に着くことが出来た。
まずナースセンターに寄って声をかける。「おはようございま~す、○○です」。
夜勤の看護師さんがそばに来て、夜の状況を話してくれた。
見回りの時間で尋ねたら大丈夫だとおっしゃったので、トイレにはお連れしなかったのですが、次の見回りの時、床に倒れられていました。どうやら、トイレに行こうとしてベッド柵を乗り越えられた様です。
「倒れて・・・」
身体を調べましたが、お怪我はされていないようです。失禁があったので下着とパジャマを交換しました。危ないので、ベッドに拘束してあります。
「え~・・・こうそく」
お母さん、ごめんね!トイレに行きたくて、誰も居なかったのだね。いつもと違うので混乱して、不安だったろうね。そして、ベッド柵を乗り越えたんだ。
お父さんを探したのかな。どうすれば良いか分からなかっただろうね。ごめんね、お母さん。というような事を考えながら、看護師さんにはお礼を言った。
「そうですか、・・どうもありがとうございました」
ちょっと変だけど、他にどういえばいいのか・・・。
急いで病室に入ると、幅の広い帯のようなもので胸の下あたりをベッドに固定されているお母さんが、申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。
自分が知らないうちに、何かやらかしたんだと思っている時の顔だ。そして、ベッドの脇には着替えたパジャマと下着がそっと置いてある。
違うよ、お母さん。お母さんは何も悪くない。悪くない、悪くない・・・
大変だったね、大丈夫かい?
そしたら少しずつ、ホッとした顔になり、お父さんが来て嬉しいという表情を見せてくれた。すぐに拘束を解いてもらい、その日は日中ず~っとお母さんの傍を離れないようにした。
それから、私は悩んだ。どうすれば良いのか、どうすれば一番お母さんの為になるのか。こうやってお母さんは、少しづつこのまま寝たきりになってしまうのだろうか。
丸椅子一つがやっと置ける狭いベッド脇で、頼み込んで一晩中私が付き添っても、体力的に2~3日が限度だろう。今回の発作は薬で押さえ込めるらしいので、無理を言って2~3日で退院させてもらうか・・・
どうすれば良いのだろう。
結局、薬の効果も暫くみる必要があるし、副作用もある。脳の検査もしたい、という先生の言葉を聞いて、私は決心した。
そもそもここは介護施設では無いし、病院だ。死ぬかも知れないと思った病気(発作)をきちんと診断して貰う事が今は最優先だ。オムツの問題は、お母さんには悪いけど、そのためには仕方がない。自分で自分をそう納得させた。
それから、日中は私が付ききりで面倒をみて、夜はオムツをはかせて、ベッドにお母さんを拘束してから帰るという生活が始まった。それも、看護師さんに任せるのではなく、教えて貰って私が自分で拘束して帰る事が日課となった。
お母さんは、拘束についても私がやれば仕方が無いのだと思うらしく、帰り際には、「これ(拘束具)まだやらないでいいの?」と催促する始末。
なにか、お母さんがとっても不憫だ。
~~~~~ブログ終わり~~~~~
夜中に暗い中で目が覚めて、隣にいつもは居るお父さんは居ないし、どうしたら良いか分からない。
ベッド柵を乗り越える時の、お母さんはどんな気持ちだったのだろうか・・・
初めての入院 2014年12月13日
患者様ご家族(H.N様)
2011年4月23日朝、お母さん(妻)を初めての発作(けいれんと昏睡)が襲った。
東日本大震災からひと月半ほど経った頃だ。突然の事に、心の準備が出来ていなかった私は、気が動転して何をして良いか分からず、救急車を呼ぼうとしても電話番号(119)がどうしても思い出せなかった事を覚えている。
それからの一日は、今思い出してもまるで夢の中の出来事のようで、全体がぼお~としていて、それでいて所々は鮮明に覚えていたりする。
その頃の私は、認知症のお母さんが時々おかしな事を言う事にも慣れてきて、食事や着替えやトイレを手伝いさえすればよい生活が、このままずっと続くのかと、なんとなく思っていた。3年以上続いた介護にも慣れてきたし、自信もついてきたところだった。
しかし、この突然の発作を契機にこの考えが甘かった事を私は思い知らされた。
お母さんの病気(難病)に対する考えが甘かった事を・・
お母さんはこれ以降、少しづつ病状が進んでいった。疲れて寝る事が多くなってきたし、歩くのがいつの間にか危なかしくなったり・・・
そして一年も経たないうちに、寝たきりになってしまった。
お母さんはこの時、確かに病気の階段を一段昇ってしまったのだ。
そして、この後現在までに都合3回の発作に襲われ、その都度お母さんは一段また一段と階段を昇っていってしまった。
【2011年5月13日 (金) のブログより】
23日の朝7時半頃、お母さんが布団から起きてトイレに行くも、何か変。いつものように介助して、終わった頃、突然頭をガクンと落として手足をつっぱり、そして身体全体に激しいけいれんがおきる。
そのあまりの激しさに、私は必死でお母さんの身体を押さえつける。
その後、数分で顔面蒼白になり、唇はみるみるうちに紫色になってしまった。
必死で顔をたたき、大声で呼びかける。「○○子~、○○子~」
この時はさすがにお父さんも、このままお母さんは死んでしまうのか、との思いが頭をよぎった。
その後顔色は戻り、大イビキをかきだす。そしてよだれ。
ここで、1階に下りてとにかく救急車を呼ぶ。
救急車が来る前に意識は戻るが、こんどは何か大声で叫びながら暴れだしたお母さん。
救急車には手を縛られて乗せられるはめに。
病院に着く直前くらいで、「私は△△(姓)・・」と言い出す。
「△△○○子」と教えると、「私は△△○○子、私は△△○○子・・」とまるで戻ってきた正気を逃がすまいとするかのように、自分の名前をつぶやいている。
病院に着くと、私は廊下で待たされ、お母さんは処置室へ運ばれていった
病院の廊下は静かで冷え冷えとしており、2組の家族が椅子に座り、うなだれてじっと何かを待っている。
扉の向うからは、「私は△△○○子、私は△△○○子・・」と呪文の様に繰り返しているお母さんの声がかすかに聞こえる。
私は緊張が緩んだのか、何故か涙が流れだして止まらない。
声を出さずに、そのまま流れるままにした。
その後病室に運ばれ、少しずつ意識は正常に戻ってきた。
病室は6人部屋で、酸素や痰吸入の機器のアラームが結構うるさい。「ピンコン、ピンコーン」と誰かの機器が鳴っている。
お母さんも、点滴以外に二つの機器に繋がれていて、枕もとの自分のアラームがこれも、「ピンコーン」だ。
ここはナースセンターの横の部屋で、重症患者用なのでナースもスグ来ます、との事だったが、センターのナースコールの「ピコピコ、ピ~」がしょっちゅう鳴り響き、これもまたうるさくて仕方がない。これではとても熟睡できないのでは。
他の患者に迷惑をかけないとか、暴れたら拘束するとか、色々な書類にサインをさせられた。
看護師さんが入院について、色々説明してくれるが、お母さんはナースコールが押せないです、と言うと、「皆さんそうですよ」との事。要するに、定時で見回るし、急変はアラームで監視しているから大丈夫、という事らしい
トイレについては、オムツを勧められる。冗談じゃない!
トイレに連れて行けば自分で出来る。オムツなんてお母さんが可愛そうだ。
私が面倒を見る!
これで私は、毎朝7時~21時の消灯までの付き添いを決めた。
しかし、夜間は・・
看護師さんの「定期的に見回り、行かせるから大丈夫」との言葉で、様子を見る事にした。
そして21時の消灯。お母さんは、もう意識ははっきりとして普通に話せる。
お母さんの顔を見ながら、「看護師さんの言うことをちゃんと聞くんだよ」と言い聞かせながら、振り切るように病院を後にした。お母さんは、少し不安そうな顔をして私を見つめていた。
私は帰りの車の中で、軽い緊張と疲れを覚えながら、何気なく口ずさんでいた。
「犬のおまわりさん♪、困ってしまってワンワンワワーン・・♪」
「泣いてばかりいる子猫さん・・・」
気がつくと、また涙が溢れてきていた。
~~~~~ブログ終わり~~~~
お父さんと一緒がいい 2014年11月6日
患者様ご家族(H.N様)
病気になってからのお母さんのひと言ひと言は、病状が進んで喋れなくなった今となっては私の大切な思い出となっている。その時々のお母さんの言葉に、驚いたり、悲しんだり、呆れたり、そしてある時は感動したりした、私。
今その時の様子を読み返してみると、その時には分からなかったお母さんの本当の気持ちが、改めて理解出来る様な気がする。
本当は辛かっただろう、淋しかっただろう、自分でもどうして良いか分からなかったのだろう・・・
そういう時は、お父さんに頼るしか無かったんだろうね、お母さん。
そのお母さんの気持ちに私は応えてあげる事が出来ていたのだろうか・・・お母さん。
いくつかブログを振り返ってみた。
【2009年3月22日 (日) のブログより】
(私、進んでいるの?)
先週16日にお母さんの診察で病院へ行った。
朝から、今日は何日だっけ、私何歳だっけ、誕生日は・・・と何回も何回も予習に余念がない。先生にたまに聞かれるからだ。
でも、年齢は56歳と教えると、その直前に教えた今日は何日かがもう言えなくなる。あ~あ。
病院は何故か今日は珍しく混んでなくて、着いたら2番目に診察となった。
最近お母さんは、少しずつだが病状が進行している様な気がしているので、先生に相談をした。話をしても、すぐ忘れるというよりも、頭の中に全然入って行かないような感じなのだ。ぼおーっとしている事も多いし。
そしたら、今日は久しぶりに先生が「今日は何日ですか?」ときた。
お母さんは困った。こちらに助けを求めてくるが、教えるわけにはいかない。
やっと、6日です・・・と答えはしたが、惜しい。「カレンダー見てもいいよ」と言われても、正解できない。その後、今日の朝ごはんは?と追加攻撃だ。
なんとか答えたがお母さんは、ガックリ。
次回の受診時に、3回目となる頭のMRIをとる事になった。
帰りの車では、「私、進んでいるの?」としょげていた。
その日は一日落ち込んでいて、ちょっとなんだか可哀そうだったなあ。
先週のこのブログへの長男のコメントに、ブラビの映画「ベンジャミン・バトン」の事が書いてあった。まだ映画は見てないが、お父さんも、昨年の秋に「アルジャーノンに花束を」を再度読んでみた。
自分の記憶が無くなっていくなんて、本人にはとてつもなくつらい事なのだろうな。
韓国映画に「私の頭の中の消しゴム」というのが有る、というのを知った。若年性認知症の女の子の恋愛の話らしい。ビデオ屋に有ることは確かめたが、借りる勇気が無い。
そんなの見たら、ただでさえ年齢と共に涙もろくなっているのに、最後まで見れるか自信がないし。
お母さんの頭の中にも消しゴムがあるのかなあ・・・
~~~~~ブログ終わり~~~~
物事が覚えられない、自分が何をするか分からない、自分を信じられない、という事はどんなにか辛いことだろう。日常生活も誰かに頼らないと、生きてはいけないという事が。
最近ボケてきて、コーヒーカップを何故か冷蔵庫にしまっていたりする私には、やっとその不安な気持ちが、少しだけ分かるようになった気がする。
【2011年8月24日 (水) のブログより】
(大きなスイカ)
先週月曜日は、お母さんのデイサービスの日だった。
今回はトイレがいつもの便秘と違って、少し軟らかいのが続いたのでその旨デイの連絡帳に書いておいた。
飲み物は冷たいお茶より、温かい方が良いだろうと思って。
いつもの様に夕方、少しふらつきながら疲れて帰って来た。
特に問題は無かったとの事。最近はオシッコもしてくれていると、スタッフが報告してくれた。良かった。
その日、夕ご飯を食べながらデイの様子を聞いていると、お母さんは思い出した様に、少し悲しそうな顔になって、「大きなスイカが・・・」と話し出した。
「とっても美味しそうなスイカを買ってきたの」
「そして皆に持ってきてくれて、食べたの」
「いつ来るか、いつ来るかと思っていたら、私には来なかったの」
「何故こないのだろうと、ずっと思っていたの・・」
半分泣き顔だ。よほど淋しかったのだろう。
多分、私の連絡帳を見て、スイカは止めたほうが良いとスタッフが判断してくれたのだろうし、その旨お母さんにも告げているのだろうけど、理解できなかったのだ。
お父さんからも、そういう事だから仕方が無いのだよ、と説明する。
その場では分かった、と言ってくれるが、暫くするとまた、
「大きなスイカが・・・」と始まる。
お母さんはスイカが好きだし、何より皆でワイワイ食事するのが大好きだ。
お母さんには悪い事をしてしまったな。淋しい思いをさせてしまった。
~~~~~ブログ終わり~~~~
ずっとスイカが来るのをまっていたんだね、じっと他の人が食べるのを見ながら。
その時のお母さんの気持ちを今思い出しても、悲しくなってしまう。お母さん、ごめんね。
【2010年1月14日 (木) のブログより】
(お父さんと一緒がいい)
ここ数日は、朝非常に寒いのと、お母さんが少し風邪気味なので、ウォーキングには行ってない。それで、なんかすこし淋しそうだ。
テレビで、老後は暖かい場所でノンビリ、ひっそりと暮らすという話が出ていた。
お母さんに、「我が家も暖かいところか、それとも雪の有る寒い所に引っ越して、ひっそり暮らそうか、どこがいい?」と聞いてみた。
だいぶん考えた末に、「おとうさんと一緒がいい」だって。
全然答えにはなってないけど、泣かせるね。これだから、毎日のことがあっても、お父さんも救われるんだよね。
~~~~~ブログ終わり~~~~
この時のことは、はっきりと覚えている
お母さんって、そんな人だったっけ。こんな殊勝なことを言うひと。
こんな事をそんなに真面目な顔で言われたら、お父さんは・・・・・二度惚れしてしまうじゃないか。
お母さん、大丈夫だよ。いつまでも、お父さんと一緒だよ!。安心して、ついておいで。
それにしても、お母さんという人はスゴイ人だね。たったその一言でお父さんをこんな気持ちにさせるなんて。
「お父さんと一緒がいい」この言葉は、お母さんの名言の中でもベストスリーに入るものだね。
お父さんに頼らないと生きていけないと悟ったこと、そしてそれを自分に許した事を、お母さんはこんな素直な表現で表してくれたのだろう。と今では私には分かる。
私が現在、義務的な、受動的な介護ではなくて、積極的な、やりたい、やってあげたい介護が出来ているのも、こんなお母さんの一言一言が私の心に目覚めさせた何かが、きっとそうさせているのだと思う。
琴線に触れる言葉(奇跡) 2014年9月8日
患者様ご家族(H.N様)
私の心の琴線に触れる言葉というものがある。
特に名言や格言といったものでも無く、人によってはごく普通の何でも無い言葉だったりする。
だけどその何気ない言葉が、私の心のポケットに仕舞ってある過去に経験した感動、深い情愛や感性を一瞬のうちに目覚めさせてしまう。
そしてそれが、心の中一杯に広がって、私の気持ちを揺り動かしてしまうのだ。
今思えば、私はそういう言葉を数年前まで、それほど多くは持って無かった様に思う。
以前は、私は仕事人間で、毎日の目の前の事に忙しくて、周りの色々な事が見えてなかった。
私の心には、とても物事に感動する余裕は無かったのだろう。
それが少しずつ増えてきたのは、確かにお母さんの介護を始めてからだ。
今の私は介護に縛られているとは言え、まるで子供の様に優しく、純真になってしまったお母さんと、常に一緒に過ごすことで心穏やかな毎日を送る事が出来ている。
介護に専念するようになってから、私は少しずつ自分を取り戻していることが分かる。
そして少しずつ、心のポケットに入れる小さな感動は増え続けている。
そう、私が変われたのは、全てお母さんのおかげなのだ。
最近になって、普段は隠れている(忘れている)そういう言葉をいくつか、突然色々な人から耳にして、心を動かされた機会が何度かあった。
☆(奇跡)
先日、介護関係者との話の中で突然、「奇跡が起これば良いのにね」、と相手が言い出した。
「どんな?」、と私。
「お母さんが元気になって、ピョンピョン飛び跳ねるようになるとか・・」
いつもお互いに、本音で介護についての話を出来る方だ。
その突然の言葉に私は、
「もしそうなったら、”今度はお前の番だよ、お父さんの老後は頼むぞ”って言うんだ」
「もしそうなったら、言う言葉は決めているんだ」
と、つい真面目な顔で言ってしまった。
予想しなかっただろう返事(言う言葉は決めているとか)に、少し戸惑ったようだった。
一瞬の間があり、「そうだよね~」と返してくれた。
そう、私は他人には理解して貰えないと思って、決して口には出さないようにしているが、心の中ではいつも奇跡を願っている。お母さんが突然、以前のように元気になるという奇跡を。(同じ思いを持っている人が居ることが分かって、とても嬉しかった)
そして、元気になったお母さんに、お父さん(私)がどんなに一生懸命お母さんの介護を頑張ったか、皆に頼んで話してもらうのだ。
それから言うんだ。
「今度はお前の番だぞ、何かあったらお父さんの面倒をしっかり看てくれよ。」
そうして、私は残りの人生を安心して、のんびり楽しんで過ごす。
これが今の私の夢なのだ。
原因不明の病気を難病と言い、原因不明で治癒すると奇跡と言う。
片方だけが起きるはずが無い。どこかで誰かに奇跡も同じ様に起きているはずだ。
私はこの世に奇跡が存在する事を信じている。
実は私自信が過去に、原因不明の病気で全身がマヒして、1ヶ月の闘病後、ついに先生に見放され、葬儀の手配まで話し合われた、という経験がある。
ところがその2~3日後に突然高熱が下がり、奇跡的に治癒していったのだ。
これは本当の話だ。
その時に、その病院で看護師だったお母さんとも知り合うことが出来た。
そしてこの死に掛けた経験こそが、色々な意味で現在の私の心の原点となっている。
この奇跡を願う気持ちがあるからこそ、お母さんの病状がこのまま進んでいって、そしていずれ別れが来るなんて、今はとても考えられない。
患者家族の気持ちって、そういうものでは無いだろうか。
【2013年11月30日 (土) のブログより】
最近お母さんは良く喋る。というか、声を出す。
2,3日前には、訪問看護師さんが帰るときに、
「さようなら~、また来るね」と言うと、ちゃんと顔を見て
「あ”~い」と返事らしきものをした。
あら、お話が出来たわ! と看護師さん。
タイミングはバッチリだったねと、私。
いつもでは無いが、時々、呼びかけに大きく頷いたり、「う”~」と声を出したりする事がある。特に最近多い。
ちゃんと、こちらの話が分かって返事をしているのか、会話に釣られて、声を出しているのかは・・・分からない。
これが、多少でも病状の改善からきているのであれば、よいのだけど・・・。
それとも次の悪化の予兆なのか。まったく、介護するという事は、心配の種は尽きないものだ。
お母さんの病状は、胃ろうを造設してからここ1年ぐらいは、安定している。
これがこのまま、ず~と続いてくれればいいのだが。
お父さんの夢は、お母さんの病気が突然治って元気になる事。
原因不明の難病なのだから、逆に原因不明で突然治ってもおかしくは無いし。
そして、元気になったお母さんに、ヘルパーさんやら皆に頼んで教えてもらう、お父さんがどんなに介護を頑張ったか・・・
そしてお母さんに言うのだ。
「今度はお前の番だ、お父さんの老後はしっかり頼むぞ! しっかりやれよ~」
するとお母さんが、いつもの調子で明るく言ってくれるのだ。
「大丈夫よ~、まっかせなさぁい~」
それで、お父さんは昼間からビール飲んで、悠々自適の生活・・・・・
こんな小さな夢でも、神様は実現してくれないのかな~
~~~~~ブログ終わり~~~~
考えてみればこの投稿も、心のポケットにあるたくさんの感動をモチーフにして書いている。そしてそれをブログや投稿に書き表す事で、また私の心も不思議と豊かになってきている様な気がする。
そう、やはり私が変ったのは、全てお母さんのおかげなのだ。
明るく、楽しく 2014年6月30日
患者様ご家族(H.N様)
お母さんの病気の初期の頃は、認知症の症状から始まり、しかもそれが少しずつ強くなっていった。
その頃私が学んだことの一つは、出来るだけ「明るく楽しく」お母さんと接して、
過ごすという事だった。
声を荒げるでもなく、しつこく説教するのでもなく、お母さんの為だと思って、
出来ない事をもっと頑張れといって無理強いする事はやめて、ただ、明るく楽しくをモットーに過ごすこと。
これに気付く迄に、随分時間が掛かってしまった。本当に私は馬鹿だった。
このころのお母さんは、自分でも病状の進行に戸惑い、不安でどうしたら良いか分からない、という状態だったと思う。
色んな事が出来なくなり、自分を信じられなくなって、簡単なことでも他人に頼らないと、生きていけなくなってしまった。
私が大声で叱ると、お母さんは以前のように言い返す事も出来ず、ただ戸惑い、
そのうち自分の殻に閉じこもってしまい、黙ってしまうという事が、時々あった。
そういうお母さんを見て、私はかけがえの無い今の時間を大切にするという事が、
二人の人生にどれだけ大事な事なのか、やっと気付き始めていた。
これからの時間を、明るく楽しく二人で生きていけたら・・
私が優しくなると、お母さんもそれにつれて明るくなり、優しくなった。
否、逆にお母さんの優しさに接し、私の方が変わっていったのかもしれない。
今となって思えば、その時々の二人の時間を辛い悲しい思い出にする事無く、
明るく楽しい笑い話にすることが出来た事は、何ものにも替え難い。
当事のテンヤワンヤは、殆どが衣・食・トイレにからんでいた様な気がする。
思い出は沢山ある。
☆
ある日の朝、寝床からオシッコに行くというので、いつもの様にトイレまで付いて行き、ズボンと下着を下ろして座らせた。
自分では下ろす事が出来ない。
しかし用を済ませば、自分で元のようにたくし上げて戻ってくるはずだ。
私は布団に戻って寝ながら待っていた。
すると、お母さんが廊下を戻ってくる音がする。ドン、ドン、ドン。
目を上げると、お母さんが両足を揃えて兎みたいに、ピョンコピョンコと跳ねながらお父さんの所まで戻ってきた。
両足首にはズボンと下着が絡まったままだ。
「なんか、オカシイの~」と、お母さん。
「オカシイって、お前ね~・・・」と、私。
でもここで、ああだこうだと言っても仕方が無い。
これはもう苦笑するしかない。
ズボンを上げてやると、お母さんは「よしっ」と言って自分の布団にもぐり込んでいった。
ブログを見てみよう。
【2008年12月10日 のブログより】
今のところお母さんは、風邪も引かず寝込んでもいず、まあ元気だ。
先日、一緒に夕飯を食べていたら、お父さんのお刺身が欲しくなって、
「そのタンパク質頂だい!」ときた。
タンパク質じゃあ分からないと言うと、だいぶん考えていた(お刺身とか、お魚という言葉が出ないようだ)。
「え~と、え~と、うをっ」
何?「うをっ」、「うをっ」・・・なんだそりゃ~、と二人で大笑いでした。
【2008年9月1日 のブログより】
お母さんは着替えが苦手だ。前・後ろや、裏・表が逆になるのは当たり前。
そもそも脱ぐときにきちんと脱がないから、ズボンの片足が裏返っていたり、
シャツの袖も片方が変だったりする。これを戻すのが本人には至難の業!
半ズボンや下着では、片方の足に両足いれて、先へ進まず困っている。
「どこかおかしいのかなぁ」と言っている。
まあ、家の中で着るパジャマは、とにかく着られれば、多少の見た目は気にしない事にしている。
が、何故かいつも、裏返しで前後ろになっていることが多いけど。
最近は、特に下着が難しい。風呂上りとかじっと見ていると、服には、頭や袖、
胴、といっぱい穴があり、どの穴に手や頭を入れたらいいのか、確かに難しそうだ。
いつもエイヤッで入れているが、大体間違った穴に手を入れるので、途中から大混乱。
特に下着は小さくて、風呂上りの身体にベタベタ纏わりついて、余計に大変だ。
先日は、仕事から帰ると、ちょうどパジャマに着替えているところだった。
頭の穴に、頭と左手を一緒に入れて、肩をもろだしで、遠山の金さんみたいな格好をしている。
まったくびっくりしたが、それでもなんだか笑ってしまった。
それじゃお前、遠山の金さんだと言ったら、お母さんも引き込まれて笑っていた。
~~~以上ブログより~~~
こうして、この投稿の為に、過去のブログを改めて読み直して、コピペしていると、
その時の情景が頭の中に、とてもハッキリと現われてくる。
その時の私の心象や、二人の言葉。何よりお母さんの声、表情が、
しかもフルハイビジョンで現われる。
まるで、過去のその時の一瞬をコピーペーストして、私の頭の中に貼り付けたかの様に。
オムツ交換は大変だ、けど・・ 2014年5月13日
患者様ご家族(H.N様)
介護作業で大変なことの一つにオムツ交換がある。
でも暫らく続けていると、少しずつ慣れてきて、いつの間にか、そうつらい作業でもなくなる。
一日に自分でやるのは平均3~4回。(ヘルパーさんや施設でもやるので)
年に約1000回、3年で3000回。
こう考えれば、さすがにどんな事でも少しは慣れてきて当たり前かな。
それでも夜中に、失敗したシーツやパジャマをお風呂場で水洗いしている時には、こういう日がこれからも続いて行くのかと、さすがに不安に思ったものだ。
その時のお風呂場がとても寒かったせいもあり、泣きそうだった記憶がある。
そのうち、何故失敗するのだろう、とか考えるようになり、失敗しないようにするにはどうしたら良いかと、色々と試行錯誤する楽しみ(?)も出来てきた。
こういう風に考えてしまうのも、長かったサラリーマン生活で刷り込まれた習性なのかもしれない。
本人の癖や、PADの役割、緩めか固めか、前後左右の微調整方法・・等々
ヘルパーさんや看護師さんの手際を密かに観察して、工夫したりもした。
またオムツ交換は、私には介護作業の(大変さの)象徴でもあったので、お母さん(妻)が病気になるまでは、オムツ交換なんて出来そうもないし、
私にはとても介護なんて出来ないだろうと、ずっと思っていた。
でも今の私には、お母さんの清潔の維持は、とても大事な介護へのこだわりとなっている。
オムツはほんの少し汚れていても捨てるし、ヘルパーさんと2人掛かりで、
毎日自宅の風呂場で入浴させている。
さすがに毎日の入浴は珍しいらしくて、「偉いね~」と誉められたり、あきれられたり、私を気遣って少しの手抜きを勧められたりもする。
それでも私は、たとえ手伝って貰ってでも出来る間は、頑張ってこだわりたい。
手足が動かず、話が出来ず、食事も出来ない、まるでダルマさんの様になってしまったお母さんではあるけれど、人間として、一人の人間として、
尊厳をもってきちんと余生を過ごして欲しいのだ。
私の、お母さんへの介護に対する思い入れは、全てこれがベースになっている。
何も悪いことはしてないのに難病になってしまったお母さん。
田舎生まれで、贅沢も知らず、家を守って、子供3人を育てあげてくれた。
なのに、今の私に出来ることは これくらいしかない。
たかがオムツ交換ではあるけれど、オシッコ、ウンチまみれのお母さんなんて考えたくもない。
大袈裟に言えば排泄行為は人間の尊厳に関わる事柄のひとつなのだから、
きちんと対応してあげたい。
確かにオムツ交換は大変だ。けど、慣れればそうつらくはない。
私が本当につらいのは、介護の作業にどうしても付きまとう、むなしさだ。
お母さんのような病気の場合、特にそう感じるのかもしれない。
毎日毎日、一生懸命、同じ日課を繰り返す介護。
食事の介助、排泄の介助、清潔の介助・・・これらがゴールも見えずに、ただただ続いていく。
オムツ交換をやっていても、いずれオムツが外れて、歩き始める・・・
といったゴールが見えない。
そして、努力に報われる事は少なく、最後には突然終わってしまうかもしれない。
そう思う時に感じるむなしさ。
時々遊びにくる孫の成長を見ていると、介護って幼児を育てる事に似ているな、と思ったりする。
自分だけでは生きていけない相手を、手助けして見守ることが。
オムツ交換からオムツはずしへ。食事もミルクから離乳食、普通食へと変わっていく。
介護と育児では、その進んで行く向きが逆なだけで、やっている事は同じだ。
だけど根本的に違うのは、介護にはその達成感が無いこと。
そして、もしお母さんの病状に変化があったりしても、私には騒ぐ事は出来ても、結局は何もしてあげる事は出来ない。
出来る事はただ、見ているだけ。
老いや難病、そして死。人知の及ばない事には、そもそも人間は無力なのだと思い知る。
今まで3回あった、お母さんのてんかんの発作では、意識を取り戻すまでの約2時間、出来る事はただひたすら名前を呼んで、様子を見ている事だけだった。
もう二度と意識が戻らないのでは、という不安を抱えながら。
こういうむなしさと無力感が、私の頭の中でいっぱいになってしまう時、私はとてもつらい。
このつらさに、これからも耐えられるのだろうかと思ってしまうほどだ。
それでも私は、オムツ交換をするし、お尻を洗ってあげたい、そして
これからも介護を続けたい。何故だろう。
機嫌がいい時に、時々見せてくれるお母さんの優しい笑顔。
冷たいジュースを飲んだ後に見せる、満足そうな寝顔。
まれに「ウ~」と返事してくれる事 ・・
些細な、でも私にとっては宝物のようなこれらの事は、何物にも代え難いし、失いたくないから。
だから私は続けていくのだろう。
例の「男の介護心得5か条」の第4条には、
「老い・病に対して無力であり、(人の)死を考えることは愚かなことだと認めよう」とある。
なかなか、この境地に達するのは難しい。
お父さん うんち出たよと 呼ぶ妻の 白き尻まぶし 春寒の朝
(この頃はまだトイレで、オムツは必要なかったな・・)
忙しい金曜日 2014年2月27日
患者様ご家族(H.N様)
木漏れ日が ベッドに揺れる すうすうと
妻をし見れば 寝息やさしき
金曜日は朝から忙しい。
11時に歯科衛生士さんが来て、口腔ケアをしてくれる。
引き続き、12時からヘルパーさんが来て、家のお風呂でシャワー浴だ。
13時からは訪看さんも来る。
これらが始まる前に、朝のオムツ交換をして、朝ごはん(胃ろう)を終えていなければいけない。
胃ろうには1時間弱かかり、その後出来れば1時間くらいは、安静にさせておきたい。
入浴の準備や、天気が良ければ洗濯等の家事もある。
こういう時、私の頭の中は時間を逆算して、何分までに何をして、と気持ちは焦るばかり。
ブツブツ言いながら、私はきっと怖い顔をしているのかも知れない。
お母さん、ごめんね。
でもそういう時に、私はふっと我に返って、ぼんやりお母さんの顔を見ながら、物思いにふけったりする事がある。
【 2013年の初夏、ある晴れた金曜日の朝 】
私は布団を片付けたら、着替えは後回しにして、早速オムツ交換を始めた。
オシッコをたくさんしてくれていて、まずは一安心。
いつもの様に、「こらこら! 手は邪魔だからじっとしてなさい」
と文句言いながら交換を終えた。もちろん、そういう指示は通らないけど。
さて、この後もやることが目白押しだ。
ふと気がつくと、ベッドの上で公園の木々の木漏れ日が、揺れている。
お母さんのベッドの横の窓から、狭い庭越しにすぐ市の公園になっているのだ。
レースのカーテン越しに、木の葉の暗い陰が白いシーツやピンクのパジャマの上でゆらゆら揺れている。
朝の公園はまだ静かだし、今日はポカポカした良い天気だ。
なんだか、私の気持ちが少し落ち着いてきた。
私はベッドの端にゆっくりと腰を下ろした。
思えばこの2年の間で、お母さんの状態も急に大きく変わったものだ。
私も色んな経験をさせてもらった。
まず、最初のてんかんの発作を契機に、少しずつ歩行が困難になっていった。
支えれば歩けたのが、手引き歩行になり、車椅子の方が楽になり、そのうち完全に車椅子になった。
風呂場までのわずか数メートルも、車椅子での移動になり、浴槽に入れるのも、難しくなった。
食事介助も、いつの間にか自分では食べられなくなり、完全介助に。
食べる物も少し柔らかいものから、おじやになり、フードプロセサでペースト状にしたもの、と変わった。
そのうちに、口を開けなくなり何も食べなくなったのには、本当に参った。
飲み食いをしなくなったら、死んでしまう。
数ヶ月間は、介護職の方々と一緒になんとか必死で食べさせた。
食事に時間が掛かる様になり、
「口を開けてくれないので、食べさせる事が出来ませんでした」と言われると、
「貴方達はプロでしょ!何か方法は無いの?」と、無理な事を言い、怒ったりした事もあった。
思えばこの頃、私も必死のあまり、周りにさぞや迷惑をかけていた事だろう。
お母さんは、食べないので体力が落ちて、ますます食べられなくなる、という負のスパイラルに陥っていった。
痩せて肋骨が浮いてきて、昼間も殆ど眠っている。
人間って、こうやって死んでいくのだなあ、と私は後日思ったりしたものだ。
決心して、2012年夏に胃ろうの造設を行い、経管で栄養を摂るようになった。
その後、体力も回復し、体重も戻った。
それから1年、お母さんの病状は小康状態を保ち、ほぼ安定している。
発作もなく、風邪もひかずに頑張ってくれている。
イチゴやバナナを、数口だけどお楽しみで食べさせて貰っている。
この状況が、もうしばらくは続いてくれるのか、ある先生に聞いてみた。
「人によるけど、階段状に病状が進んできて、今は踊り場に居るという事かな。
いずれは、また階段を一段昇る時が来るでしょう」
という事だった。
私としては、今の踊り場がとてもとても広い踊り場であって欲しい。
そこを通るのに、3年、5年も掛かるような広い広い踊り場。
階段を降りることは無いだろうけど、また昇りだすのはもっと後で良いよ、と切に思う・・・
(忙中閑あり)
さて、忙しい金曜日が始まる。
ベッドの上のお母さんを見ると、優しい顔をして、すうすうと寝息をかいていた。
家族会で泣いた日 2014年1月15日
患者様ご家族(H.N様)
もうお母さん(妻)を一人では放ってはおけない、介助が必要だ、と思ったのは7年くらい前だったろうか。
その頃のお母さんは、初期の認知症の症状が進み始めていて、家事全般にも無理が出てきていた。
私が会社から帰ってから、お母さんにその日の様子を聞くと、
「水道が止められなくなり、隣のおじちゃんに止めてもらった」とか、
「包丁で指を切ったので、近所の家に駆け込んで絆創膏を張ってもらった」とか、
言うようになり、いつのまにか他人にまで迷惑を掛ける様になってしまっていた。
介護をやるといっても、最初は何をして良いのか私にはまったく分からない。
家電や水道栓等を操作が簡単なものに変えたり、ガスをIHにしたりした。
また、食事もお母さんが作らなくて良い様に、平日昼は事前に私が準備をしておき、
夜や休日は惣菜や外食で済ませたり、私が作ったりもした。
しかし実際やり始めると、これは大変だと言う事が段々と分かってきた。
特に男性が介護者になると、介護以外に毎日の家事の負担が重くのしかかってくる。
毎日毎日の料理、片付け、洗濯、掃除、ゴミ出し、近所付き合い・・・
また、男性は介護を完璧にこなそうとする傾向があり、弱音が吐けず孤立を深めていくケースが多いそうだ。
あとで知ったのだが、「男の介護心得5か条」と言うものがあり、
その第2条に、
「出来ない事は、頼る勇気を持とう」、
第5条に、
「この世に完璧な介護など存在しないと言う事を心に留めておこう」
とある。
(私は、今でも頭の中でこの呪文を時々唱えている。)
当事は相談できる相手も居ない中で、自分なりに一生懸命試行錯誤して、介護や家事を続けていた。
覚悟を決めて、弱音を吐かず、平静を装って。
それこそ完璧な介護者を目指して頑張っていた。
しかし実際は、これで良いのだろうか、これからどうなるのだろうかと、
直る見込みの無い病気のお母さんの事と、それに向き合っていかなければいけない自分への不安で、頭の中は溢れそうだったのではないだろうか。
しばらくして、ケアマネさんにもお世話になるようになり、若年性認知症患者の家族会に、行って見てはどうかと勧められた。
私は、大して期待もせずに、お母さんの話し相手でも見つかれば良いと思って、その家族会に初めて参加してみた。
自分でも気付かないうちにやはりストレスが溜まっていたのだろう。
不覚にもそこで私は泣き出してしまったのだ。
そして、泣きながら話を終えると、それまで張り詰めていた肩の力がす~と抜けていくのが分かった。
【2008年7月22日 (日) のブログより】
初めて参加した家族会で、お父さんは不覚にも泣いてしまった。
何故か嗚咽が止まらず、最後まで泣きながらの近況報告となってしまった。
人前で泣いたのは、22歳の時の実母のお通夜以来34年ぶりになる。
7月22日朝、お母さんと二人でケアマネさんに以前から勧められていた、若年性認知症の家族会に参加した。
今回の参加者は、16名。
最初に話をされた家族の方は、落ち着いた感じで、隣に居る認知症の奥さんの状況を話された。
病院の事、家庭のこと、介護のこと、淡々と話をされるが、
私の今の経験や悩みに照らすと、そのご苦労は非常に良く分かる。
ちょっとした事でも、そうそう、そうなんだよね~。
次の方は、徘徊の介護の経験をこれも淡々と話された。
近所や警察を巻き込んで、それでも見つかるのは1日経ってから・・・!!
ヤバイ!この辺りから、鼻がグスグス、目の奥がキーンとなってきた。
次は私の順番だ。あれも話そう、これも話そう、そう言えばあんな事もあったなあ。
この先私達はどうなるんだろう・・・ なんて考えている時に、話す番になった。
「妻は56歳で、当初更年期がひどくて・・」あたりから、嗚咽が止まらず泣きながらの話になってしまった。
みっともない、聞きづらいだろうからと、なんとか泣き止めようとするが、これがなかなか止まらない。
それでも折角来たのだからと、泣きながら、最後まで思っている事を全部話し終えた。
お母さんを含め、何人かが貰い泣きしてくれた。
まあそれでも、明るい司会の方の言葉や、他の人のコメントで場は救われた。
なぜ私が泣いたのかは分からない。泣いてしまうなんて、その時まで考えてもいなかった。
がしかし、泣いたおかげで気持ちが、なんだかすっきりしたのは、間違いない。
なんか、これまでずーと頑張らなければと気が張っていて、溜まっていたのだろうなあ。
~~~以上ブログより~~~
以来、この家族会には本当にお世話になった。
毎月の家族会を楽しみに、数年間二人で参加させてもらった。
何より気を使わなくていい。介護しているのは自分だけではないと感じられる。
そして、外出や近所付き合いが減って家に一人で居る事の方が多くなったお母さんが、家族会に行くのを楽しみにするようになったのだ。
居酒屋での懇親会では、お母さんの面倒をスタッフがみてくれ、私は安心してお酒が飲める。
大洗の水族館には、会の皆さんと一緒に二人揃って旅行にも行くことができた。
家に籠もりがちな介護者にとって、同じ悩みを持つ仲間が居るということが、
どんなに支えになるか、どんなに大事な事かを、しみじみと感じている。
ある時の会での様子。
【2008年10月21日 (日) のブログより】
日曜の朝、若年性認知症の家族会に二人で参加した。
会は順番に近況や伝えたいことを話して、色々脱線しながら2時間ちょっとで終わる。
お母さんも、じっと聞いている人ではないので、あちこち口を出し、いつの間にか話に溶け込んでいる。
いつも明るく冗談を言いながら、また、失敗は冗談にしながら過ごす様に努めていると、お父さんも例を交えながら、報告した。
妻は、何回も何回も同じ事を言い、同じことを訊くし、私も同じことを答える。
いい加減にアタマに来ると、「もう百万回も同じ事を言ったぞ!」と私が言う。
すると妻は、
「まだ、百万回なんて言ってないもん!」と反論する。
これでは、これ以上怒れない・・・ 云々
司会者からは、ご夫婦仲が良ろしいようでご馳走様!と言われてしまった。
まあ、しょっちゅう喧嘩もしているんだけどね。
帰りにはいつも、途中で豚骨ラーメンだ。お母さんは美味しいと感激していた。
これもいつもだけど・・・
~~~以上ブログより~~~
残念ながら、いろんな事情でこの家族会は現在休会中だ。
最後の外食 2013年10月26日
患者様ご家族(H.N様)
今日お母さんは、ショートステイに行ってくれている。2泊3日。
お父さんゆっくり出来るね、と皆言ってくれるけど、丁度台風も来たし、夜になるとガランとした我が家に一人きりで居るのは淋しいものだ。
ベッドにお母さんが寝ていてくれるだけでも、家の中の雰囲気がまるで違う。
ショートの日には、私は出来るだけ外食するようにしている。
普段はお弁当や冷凍食品の食事が多いので、ささやかな楽しみなのだ。
今日のお昼は近所の中華屋さんにした。
そして、ここに来ると、いつも必ず思い出してしまう事がある。
ここは、お母さんと最後に外食したお店なのだ。
一昨年の秋、ここで一緒に冷し中華を食べたのが最後の外食になってしまった。
こぼしながらも、一生懸命自分で箸を使って食べていた。冷し中華、大好きなのだ。
とてもとても美味しそうに食べていたのが、忘れられない。
その後、痙攣の発作が起きたり、発熱で寝込んだりして、二人での外出が難しくなり、外食が出来なくなった。
そして今ではチューブを通して胃に栄養を送る(胃ろう)食事になった。
ラーメンやお寿司が大好きだったお母さん、もう食べられないんだね。
【2011年11月15日 (火) のブログより】
土曜日の日中はまた、久しぶりに暑かった。
車のクーラーを入れたいくらいだ。入れなかったけど。
土曜日は毎週、朝からおかあさんのリハビリの通院だ。今日は言語療法(ST)、他。
お鼻を右手で触ってください、と言われると毎回先生の鼻を触ろうとする。
これには毎回先生も笑ってしまう。
「自分の鼻を触ってくださいね!」
・
・
その日の帰りには、あまりの暑さにお母さんは冷やし中華が食べたいと言い出した。
今どき冷し中華をやっている店は、ないだろうなあ・・
と思いながら、唯一可能性のある、近所の中華屋さんに行ってみた。
ありました、冷し中華、11月に!
良かった~!
お母さんはこぼしながらも、美味しそうに、食べていました。
最近は頭痛やら何やらで、外出が減ったので久しぶりの外食でした。
~~~以上ブログより~~~
私が仕事を辞めて、介護に専念すると決めてから、気をつかった事の一つが食事だ。
お母さんに、食べられる内に出来るだけ好きなものを食べさせてあげたいと。
料理作りも頑張ったけれど、外食には良く車で連れて行ったものだ。
そういう時に、美味しい美味しいと言って食べてくれた思い出は、今では私の大事な宝物だ。
本当の自分 2013年9月4日
患者様ご家族(H.N様)
お母さんは、病気になってからも皆にとても可愛がられている。
最近は回数が減ったけど、時々見せる笑顔がとても素敵なのだそうだ。
なんだか癒されるとか・・・
ある人は、「こんな風に、笑う時に口角があがる人は、笑顔が素敵なんだよね」って解説までしてくれた。
介護や医療に携わる方々の職業柄、お世辞半分もあるだろうけど、私も嬉しい。
1年半くらい前、お母さんは既に殆ど喋れなくなっていたけど、突然声を出して笑う事が時々あった。
誰に話し掛けられているでもなく、何の脈絡もなく、ただベッド前方の壁を見つめて、笑っている。
顔の表情も、とても楽しそうだ。
何か楽しい事でも思い出したんだろうと、思っていた。
が、さすがにそれが何回か続くと少し気味が悪いし、心配になる。
ある先生(ドクター)に訊いてみた。
「こういう認知症の人は、自分の心にまとっている殻が少しずつ剥がれていくんだよね。
人間って、大人になって社会生活を送って行く中で、心にたくさんの殻をまとってしまうでしょ。
それが今、剥がれて本当の自分が出てきているんだよ。
こういう風に穏やかで、笑っていられるなんて、すばらしい事じゃない!」と言ってくれた。
愚痴ばかり言っている人、怒る人、暴力を振るう様になる人・・・
認知症の人も様々みたいだけど、お母さんは穏やかで笑っている。
きっと心の中には、楽しい事がいっぱいなのかも知れないね。
そう言えば、お母さんは病気になる前も、人間が好きで、お年寄りが好きで、子供が大好きだった。
そしていつも良く笑っていた。
こんな病気になって、本当の自分が出てきても少しも変わらないって、
すばらしいよ、お母さんは。
発語できないおかあさん 2013年8月25日
患者様ご家族(H.N様)
【2012年9月29日 (土)のブログより】
昨日、胃ろうの作業を始めようとしていたら、眠っているお母さんが、寝言ではっきりと、
「おとうさあ~ん」と言ってくれた。
こんなにはっきりとした言葉を聞くのは久しぶりだ。
最近は、「う~ん」ぐらいだし、それも時々。
何処かでお父さんとはぐれて、寂しい思いをしたのかなあ・・・夢の中で。
認知症になってから、一人きりになるのをとても怖がっていたし。
そして、まだお父さんの事は、覚えていてくれてるんだ、と思うととても嬉しかった。
~~~以上ブログより~~~
妻がまったく発語出来なくなって、喋れなくなって、どれくらい経つだろう。1年? 2年?
最初は誰にでもよくある、単語が出なくて「あれ、それ」が多くなったり、しょっちゅう言葉に詰まったりする事から始まった。
そのうち認知症が進んで、語彙も少なくなり、内容もおかしくなってきた。
大好きな豚骨ラーメン屋に連れて行った時も、「これ今までで一番美味しいね」と嬉しそうに言う。
美味しいと言いたい時は、何であれ必ずこう言う。
「これ、新鮮で美味しい」というのも、だいたいその後に続く。
たとえラーメンであっても。
でも、この頃は美味しいという気持ちは、ちゃんと伝わってきていた。
今思えば、意思が伝わるなんて、本当に夢のようだ。
これが3年前くらい。
その後、徐々に喋る回数がいつの間にか減ってきた。
表情はあるし、こちらから尋ねれば答えてはくれても、いつの間にか、大人しい静かなお母さんになってしまった。
なんだか、喋るのが億劫になったみたいに・・・
それからは、自分から喋る事はほとんど無くなり、そして問いかけにも応えなくなった。
徐々に無表情の時が多くなり、今に至っている。
もう少しブログを見てみる。
【2013年2月3日 (日) のブログより】
昨日は久しぶりに暖かかったし、今日もまあまあの朝だった。
日曜なので、夜の入浴介助以外は誰も来ないので、ゆっくり朝寝坊した。
10時過ぎになって、雨戸を開け、私の布団を片付けて、お母さんのマスクを取ってあげた。
いつもの様に顔を近づけ「おはよう! 朝ですよ~」と、繰り返し呼びかけてみた。
今日は、お母さんは呼びかけの度に、「あ~」と応えてくれた。
「オムツ替えるよ~」というと、私を見て、しっかり頷いてもくれた。
こんなにハッキリ反応があるのは、最近では珍しい。
あるヘルパーさんは、お風呂場やベッドでのお母さんの反応を見て、
「この人は絶対(こちらの言う事が)分かってるよ、ただ身体が言う事を利かなくて喋れないだけで」
と、いつも言ってくれる。
私は半信半疑なのだが、今朝の反応を見ると、本当なのかも・・・
と思ってしまう。
そうなら、とても嬉しいのだけどね。
ただ、こんな病気になり、とうとう寝たきりになって、今では何一つ自分では出来ない。
そんな時、本人はどんなに辛いだろうと思う事がある。
でも実際は認知症で、何も分からないので、その方が却って幸せなのかも・・と私は自分を納得させている。
お母さんは、本当に何も分からないのだろうか、それとも全部分かっているのだろうか。
お母さんにとって、本当はどちらが幸せなのだろう、とか考えさせられてしまう。
妻の爪を切る 2013年2月25日
妻の爪を切る(H.N様)
昨日、気になっていたので、妻のつめを切った。手と足の爪。
目の前にチョコンと座り、痔れて震える手を差し出してくる。
その手を引っ張って指をつまみ、パチン、パチン。
今回はまだ、そんなに伸びていないようだ。
相変わらず、少しむくんでピクビク震えている手。
虫さされなのか、あちこちにかきむしった跡がある。
まあ、きれいな手とはとてもいえないかなあ。
それでも数年前までは、この手で子供3人を育て、家事を一切取り仕切ってくれていた…
そう思うと、最近はこんなになってしまった手でも、ちょっどいとしい気がする。
私も変わったものだ。
今度は足。まさか私が妻の足の爪を切ることになるとは、思ってもいなかった。
多分大多数の、亭主族もきっと同じだろうけど。
これでも、やはり最初は抵抗があったなあ…
それで、つめ伸びてても見て見ぬ振りをしたり、「自分で何とかしろ!」なんて無理な事を言ったりして、今思えば冷たかったな。照れもあったんだよね。
ある時、さすがに無理だと思い、なんだか照れ隠しに怒りながら、しかも恩着せがましく爪を切ってやった。
そうしたらその後は、意外に自分の気持ちのバリケードがすぐ取れて、あっさり慣れてしまったのだ。
この辺りから、私の妻に対する気持ちが、なんだかとても楽になったように思う。
パテン、パチン。妻は子供のようにじっとして、ひたすら爪の先を見つめている。
そして、嬉しそうだ。(2009.03.09)
***
「手を出して気持ち良さそう次は足パチンパチンと妻の爪切る」
この日の気持ちを短歌にしたものが後日、朝日新聞に掲載されました。
(平成23年1月8日人生デザイン欄)